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井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録

by ikawazukbr
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みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき4)

⑯推古天皇29年(西暦621年)2月5日、皇太子は斑鳩宮(いかるがのみや)に薨去された。

⑰推古天皇31年(西暦623年)、新羅(しらぎ)が任那(みなま)を討ち、任那は新羅に属した。天皇は新羅を討とうとされたが、群臣の議論が合わず一時中止となった。その後、朝廷と両国との協議が進む途中で、馬子大臣が数万の軍兵を送り出して、新羅を討った。

⑰推古天皇32年(西暦624年)9月、寺および僧尼を調査して、詳細に各寺の縁起、僧尼の入道の事由(ことのよし)、出家の年月日などを記録した。このとき、寺は46ヵ所、僧816人、尼569人、併せて1,385人であった。

⑱推古天皇32年(西暦624年)10月、馬子大臣が二人の使いをだして、天皇に奏上させて「葛城県(かつらぎのあがた)は代々葛城氏が居りますが、蘇我氏は葛城氏の同族でありますから、本来私のものであります。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もあります。どうか永久にその県を賜りたい」と云った。天皇は、「自分は蘇我氏の出(母は蘇我稲目の娘:堅塩媛(きたしひめ))である。馬子大臣はわが叔父である。故に馬子大臣の云うことは、即刻どんなことでも聞き入れて来た。しかし今わが治世に急にこの県を失ったら、後世の帝(みかど)が「愚かな女が天下に公(きみ)として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった」と云われるだろう。ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不明とされ、後世に悪名を残すことになるだろう」と申され許されなかった。

⑲推古天皇36年(西暦628年)2月、天皇は病臥された。病が重くなっていくなかで、田村(たむらの)皇子(みこ)(後の舒明(じょめい)天皇)を召されて、「天子の位を嗣ぎ、国の基をととのえ、政務を統べて、人民を養うことはたやすいことではない。私はお前をいつも重くみてきた。それゆえ行動を慎んで、物事を明らかに見るように心がけなさい。何事も軽々しく云ってはなりませぬ」と諭された。また、山背(やましろの)大兄(おおえの)(聖徳太子の御子)を召して、「お前はまだ未熟であるから、もし心中に望むことがあっても、あれこれ云ってはなりませぬ。必ず群臣の言葉を聞いて、それに従いなさい」と教え諭された。
 2月7日、推古天皇が崩御された。
# by ikawazukbr | 2012-07-19 13:37 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古(すいこ)天皇(つづき3)

⑪推古天皇13年(西暦605年)4月、天皇は、皇太子・大臣・諸王。諸臣に詔して共に請願を立て、始めて銅(あかがね)と繡(ぬいもの)との1丈6尺の仏像を、各一軀(ひとはしら)造り始めた。鞍作鳥(くらつくりのとり)を造仏の工(たくみ)に任じた。高麗(こまの)国の大興王(だいこうおう)は、これを聞かれて黄金(こがね)三百両を奉った。14年(西暦606年)4月、銅と繡の丈6の仏像が完成した。銅の仏像は元興寺(がんこうじ)(飛鳥寺)にお祀りし、齊会を行った。

⑫推古天皇14年(西暦607年)5月、天皇は、皇太子を招き勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。また皇太子は、法華経(ほけきょう)を岡本宮(おかもとのみや)で講じられた。天皇はたいへん喜ばれた。しかし神祇を忘れたのではなく、15年(西暦608年)2月には「古来、わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに慎んで厚く神祇を敬まわれ、天神(てんしん)地祇(ちぎ)をお祀りし、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々の御業も順調に行われた。今わが代においても神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心を尽して、よく神祇を拝するようにせよ」と申されている。

⑬推古天皇15年(西暦607年)7月、大礼(だいらい):小野臣(おののおみ)妹子(いもこ)を大唐(もろこし)(隋(ずい)の国)に遣わした。世に云う「遣隋使(けんずいし)」である。翌年4月、小野妹子が帰った。共に大唐の使人:裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)12人が来た。客人たちをもてなし、隋の国の皇帝からの書や進物が届けられた。15年(西暦607年)9月、裴世清らが帰ることになった。小野妹子を大使として再び遣わされた。この時の隋の皇帝にあてた書が、あの有名な「「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。・・・・・・云々」の文書である。
 このとき、勉学のため8人の学徒を遣わした。この年、新羅(しらぎ)の人が多く帰化してきた。

⑭推古天皇18年(西暦610年)3月、高麗(こま)王が僧:曇徴(どんちょう)・法定(ほうじょう)らをたてまつった。

⑮推古天皇28年(西暦620年)12月、皇太子と馬子大臣が相謀って、天皇記および国記(こにつふみ)、臣・連・伴造・国造・その外多くの部民・公民らの本記を記録した。
# by ikawazukbr | 2012-07-17 10:00 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古天皇(つづき2)

⑥推古(すいこ)天皇8年(西暦600年)2月、新羅(しらぎ)と任那(みなま)の間に戦が勃発した。天皇は、任那を助けようと兵を出した。両国に使いを遣わして、両国に和議が成立したかに見えたが、新羅は任那を犯した。9年(西暦601年)3月、高麗(こま)と百済(くだら)に働きかけて、任那を助け新羅を討とうとされた。来目皇子(くめのみこ)(聖徳太子の同母弟)を新羅討伐の将軍に任命された。来目皇子は、筑紫に至って戦の準備に入ったが、病に掛かり役目を果たせなくなった。11年(西暦603年)2月に薨去(こうきょ)された。墓は、河内の埴生(はにゅう)山の崗の上(大阪府羽曳野市埴生野、第22代:清寧(せいねい)天皇と第24代:仁賢(にんけん)天皇の陵(みささぎ)の近く)にある。
 改めて来目皇子の兄:当摩(たぎまの)皇子(みこ)を将軍に任じたが、明石に着いたとき従っていた妻の舎人姫(とねりのひめの)君(きみ)が薨去した。ついに新羅の討伐は中止になった。

⑦推古天皇10年(西暦602年)10月、百済から僧:観勒(かんろく)が来て、暦の本、天文地理の本、遁甲(どんこう)方術(占星術と占い術)の本を献上した。陽胡史(やどのふびと)の祖:玉陳(たまふる)は暦法を、大伴(おおともの)村主(すぐり)高聡(こうそう)は天文・遁甲(どんこう)を、山背臣(やましろのおみ)日立(ひたて)は方術を学んで、業を遂げた。高麗(こま)の僧:僧隆(そうりゅう)・雲聡(うんそう)が来日し帰化した。

⑧推古天皇11年(西暦603年)11月、皇太子は諸大夫(まえつきみたち)に「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏をお祀りする者はいないか」と云われた。秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)が進んで「臣がお祀りしましよう」と申し出た。河勝は仏像を頂いて蜂岡寺(はちおかてら)(現在の広隆寺(こうりゅうじ))を造った。

⑨冠位(かんい)十二階(じゅうにかい)を、推古天皇11年(西暦603年)12月に施行、12年(西暦604年)1月1日に冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいれい)、小礼(しょうれい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)の十二階である。更に冠の色を、錦(にしき)・青・赤・黄・白・黒に分けて位階(いかい)を示すことになった。

⑩推古天皇12年(西暦604年)4月3日、皇太子は初めて自から作られた十七条憲法を発表された。9月に朝廷の礼法を改められた。

『和を以て貴しと為し、伴う無きを宗と為よ』から始まる、十七条憲法について詳細を知りたい方は、インターネットで検索してお読みください。
また、条文は後の30~33ページにも掲載してあります。
# by ikawazukbr | 2012-07-16 11:35 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古天皇(つづき)

c.主な出来事
①39歳のとき、崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)11月3日に崇峻天皇が崩御された。そこで敏達(びたつ)天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)に皇位を継いで頂くよう、群臣たち揃ってお願いするが辞退され、三度目にようやく受け入れられた。

②推古(すいこ)天皇元年(西暦593年)4月、厩戸豊聰耳(うまやどのとよとみみの)皇子(みこ)を立てて皇太子とされ、国政をすべて任せられた。太子は、用明(ようめい)天皇の第二皇子であり、母は皇后の穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)(欽明(きんめい)天皇の皇女)である。皇后は馬司(うまのつかさ)の所においでになったとき、厩の戸に当られた拍子に難なく出産された。太子は、生まれて程なくものを云われたといい、聖人のような智恵をお持ちであった。成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても間違うことなく、先の事までよく見通された。仏法を高麗(こま)の僧:慧慈(えじ)に習われ、儒教(じゅきょう)の経典を覚哿(かくか)博士(はかせ)に学ばれた。そして、これらを悉(ことごと)く極められた。用明天皇が可愛がられて宮殿の南の上宮(かみつみや)に住まわされた。それでその名を称えて上宮(かみつみやの)厩戸豊聰耳(うまやどのとよとみみの)太子(ひつぎのみこ)と云う。

③推古(すいこ)天皇2年(西暦594年)2月、天皇は、皇太子と蘇我(そがの)馬子(うまこ)大臣に詔して、仏教の興隆を図られた。このとき多くの臣(おみ)・連(むらじ)たちが、君や親の恩に報いるため、競って仏舎(寺)を造った。

④推古(すいこ)天皇3年(西暦595年)5月、高麗(こま)の僧:慧慈(えじ)が帰化した。皇太子はそれを師とした。百済の僧:慧聡(えそう)が来た。この二人が仏教を広め、三宝の棟梁(とうりょう)となった。4年(西暦596年)11月、法(ほう)興寺(こうじ)が落成した。馬子(うまこ)大臣(おおおみ)の長子:善徳(ぜんとくの)臣(おみ)を寺の司(つかさ)に任命した。この日から、法興寺(ほうこうじ)に慧慈(えじ)と慧聡(えそう)の二人が住んだ。

⑤推古(すいこ)天皇5年(西暦597年)4月、百済(くだら)が調(みつぎ)を奉った。6年(西暦598年)4月、新羅(しらぎ)から鵲(かささぎ)2羽が献上された。6年(西暦598年)8月、新羅(しらぎ)が孔雀(くじゃく)1羽を献上した。6年(西暦598年)10月、越(こし)の国(北陸)から白(しろき)鹿(しか)1頭が献上。7年(西暦599年)4月、大地震が発生、多数の建物が崩壊。
 7年(西暦599年)0月、百済(くだら)から駱駝(らくだ)1匹、ロバ1匹、未2匹、白(しろき)雉(きじ)1羽、が献上された。
# by ikawazukbr | 2012-07-13 09:58 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古(すいこ)天皇
   (豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇(すめらみこと))
   (欽明(きんめい)天皇の第二皇女、用明(ようめい)天皇の同母妹、
    18歳で敏達(びたつ)天皇の皇后、
    敏達天皇14年(西暦585年)8月15日に敏達天皇が崩御。)

a.御陵
 陵名=磯長(しながの)山田(やまだの)陵(みささぎ)
 墳名=山田高塚古墳
 陵の形=方丘
 所在地=大阪府南河内郡太子町大字山田
 交通=近鉄南大阪線「貴志駅」下車、バス「御陵前」下車、南ヘ200m

b.履歴
 御名・異称=豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)尊(みこと)・額田部
 父=欽明(きんめい)天皇
 母=蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)
 配偶者=敏達(びたつ)天皇
 皇子女=第30代:敏達天皇の項に記した。
 誕生=欽明(きんめい)天皇15年(西暦554年)
 即位=崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)12月8日
 崩御=推古(すいこ)天皇36年(西暦628年)3月7日
 在位年数=37年
 年齢=75歳
 年号=―――
 皇居=豊浦宮(とゆらのみや)(奈良県高市郡明日香村)
      小墾田宮(おはりたのみや)(奈良県高市郡明日香村)

備考:
 推古(すいこ)天皇は、初代の女帝であり、摂政(せっしょう)であった聖徳太子(しょうとくたいし)(皇太子)と伴に、仏教を広め、官位(かんい)十二階を制定し、十七条憲法(けんぽう)を制定し、国史を撰し、遣隋使(けんずいし)を派遣し、近代国家への基(いしずえ)を築かれた。
# by ikawazukbr | 2012-07-10 10:09 | 旅行記