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2012年 07月 01日
(29)第29代:欽明天皇(つづき)
③欽明(きんめい)天皇23年(西暦562年)1月、新羅(しらぎ)は、遂に任那(みまな)の宮家を打ち滅ぼした、加羅国(からのくに)・安羅国(あらのくに)・斯二岐国(しにきのくに)・多羅国(たらのくに)・卒麻国(そつまのくに)・古嵯国(こさのくに)・子他国(したのくに)・散半下国(さんぱんげのくに)・乞飡国(こつさんのくに)・稔礼国(にむれのくに)の十国を云う。 23年(西暦562年)7月、天皇は、新羅(しらぎ)を打つよう将兵を遣わしたが、百済と結んだ戦闘計略が漏れて、新羅の残虐な攻めに合い、遂には敗北に終わった。 23年(西暦562年)8月、天皇は、数万の将兵を遣わして、高麗(こま)を討たせた。百済(くだら)の助けも得て高麗を撃破した。 天皇は、死の床にあっても、「新羅(しらぎ)を討って、任那(みなま)を封じ建てよ。そしてかつての如く両者相和する仲となるようにせよ」と気に掛けておられた。 ④欽明天皇と姪の皇后石姫(いわひめ)との間に生まれた嫡嗣が、西暦572年、即位して、第30代:敏達(びたつ)天皇となられた。「仏法を信(う)けず、文史(儒書(じゅしょ))を愛(この)みたまふ」と書かれている。前代から疫疾(えきしつ)の流行による死者が絶えないので、西暦585年、「仏法を断めよ」と命じておられる。 次にその異母弟が即位して、第31代:用明(ようめい)天皇となられた。「仏法を信(う)け、神道を尊びたまふ」と書かれている。「仏法」を信仰されたのは、母が蘇我(そがの)稲目(いなめ)の娘:堅塩媛(かたしひめ)であるからその影響であろうが、同時に皇女の酢香手媛(すかてひめ)を「伊勢の神宮に拝して日神(天照大神)の祀りに奉らせておられる」など、古来の「神道」も尊崇しておられた。 仏教に賛意を表している蘇我馬子(そがのうまこ)と、反対する物部氏(もののべし)・中臣氏(なかとみし)に、次の皇位をめぐる争いが絡み、西暦5857年、蘇我馬子のために物部氏は滅ぼされてしまったのである。そして、蘇我馬子の甥にあたる泊瀬部(はつせべの)皇子(みこ)が擁立され、第32代:崇峻(すしゅん)天皇となられたのである。 #
by ikawazukbr
| 2012-07-01 14:33
| 旅行記
2012年 06月 30日
(29)第29代:欽明(めい)天皇(つづき)
②仏教を慎重に受容した欽明(きんめい)天皇 仏教が百済(くだら)から日本へ公式に伝来したのは、欽明(きんめい)天皇7年(西暦538年)である。百済の聖明(せいめい)王(在位:西暦523~554年)が仏像と経典を献り、「この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)(儒教の始祖)も知ることができませんでした。・・・・帝(みかど)(日本)に伝え奉ります。国内に流通させてください」と推奨してきた。 それに対して、欽明天皇は、妙なる仏教の到来を喜びながら、重臣たちに「百済の献れる仏のお顔は端麗の美を備えておられ、全く未曾有のものである。これを祀るべきかどうであろう」と意見を求められた。 すると、新興勢力の蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)は直ちに賛意を表した。しかし、古参の物部(もののべの)大連(おおむらじ)尾輿(おこし)・中臣連(なかとみのむらじ)鎌子(かまこ)は、従来「わが国家(みかど)の天下に王(おおきみ)とましますのは、恒に天地社稷(しゃしょく)の百八十神(ももやそかみ)を以て春夏秋冬に祭拝(まつり)したまうからであり、今後、改めて蕃神(となりかみ)(仏)を拝みたまえば、恐らく国神(くにつかみ)の怒りをうけることになるでしょう」と反対を唱えています。 そこで天皇は、即決を避けられ、とりあえず仏像などを蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)に 対して「試みに礼拝するよう」に指示された。古来の神衹(じんき)祭祀(さいし)を主催して来られた天皇は、外来の仏教に感心しても、その受容には慎重を期されたのである。すると、しばらくして国内に疫病が流行し、多くの人々が病死した。そのため、物部(もののべの)尾輿(おこし)らの反対派の奏請により、「仏像を難波の堀江に流し捨て、また火を伽藍(寺)に火を付け焼き尽くす」に至った。一方、蘇我氏のほうでも仏教だけを信仰したわけではなく、例えば、西暦555年、百済の聖明王が新羅(しらぎ)と戦って遂に殺されたことを知らせてきた王子恵(けい)に対し、「初め国を建てられた神、即ち天より降り来まして国家(日本)を造り立てられた神である。汝が国(百済)は、これを啜(す)てて祀らずにいたので今日のようになったのである。まさに今、前の過ちを悛(あらた)め悔いて、神の宮を修い理(おさ)め、神の霊を請い招いてお祈りしたならば、国は栄えるだろう」と、むしろ神祭を励行するように諭しておられる。 #
by ikawazukbr
| 2012-06-30 17:29
| 旅行記
2012年 06月 29日
(29)第29代:欽明(きんめい)天皇
(天国排開(あめくにはいはるき)広庭(ひろにわの)天皇(すめらみこと)) (安閑(あんかん)天皇・宣化(せんか)天皇の異母弟) a.御陵 陵名=檜隈坂合(ひきくまのさかあいの)陵(みささぎ) 墳名=平田梅山古墳 陵の形=前方後円(全長138m)・堀 所在地=奈良県高市郡明日香村大字平田 交通=近鉄吉野線「飛鳥駅」下車、北東へ600m 欽明天皇の陵の近くにある御陵 第40代:天武(てんむ) 天皇(天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの) 天皇(すめらみこと))=檜隈(ひのくまの)大内(おおうちの)陵(みささぎ) 第41代:持統(じとう) 天皇(高天原(たかまのはら)広野姫(ひろのひめの)天皇)= 檜隈(ひのくまの)大内(おおうちの)陵(みささぎ) 第42代:文武(もんむ)天皇(倭根子(やまとねこ)豊祖父(とよおじの)天皇)= 檜隈(ひのくまの)安古岡上(あこのおかのへの)陵(みささぎ) 他に、高松塚(たかまつづか)古墳、見瀬丸山(みせまるやま)古墳があります。 b.履歴 御名・異称=天国排開(あめくにはいはるき)広庭(ひろにわの)尊(みこと) 父=継体(けいたい)天皇 母=手白髪(てしらかの)皇女(ひめみこ) 皇后=石姫(いしひめの)皇女(こうひめみこ)(宣化(せんか)天皇の皇女) 妃=①稚綾姫(わかあやひめの)皇女(ひめみこ)(皇后の妹)、 ②日影皇女(皇后の妹)、 ③堅塩媛(きたしひめ)(蘇我大臣(おおおみ)稲目宿禰の娘)、 ④小姉(おあねの)君(きみ)(堅塩媛(きたしひめ)の同母妹)、⑤糠子(あらこ) 皇子女=皇后→葥田(やたの)珠勝(たまかつ)大兄(おおえの)皇子(みこ)、 訳語田(おさたの)渟中倉(ぬなくらの)太珠敷(ふとたましきの)尊= (後の敏達(びたつ)天皇)、笠縫(かさぬいの)皇女(ひめみこ) 妃①→石上(いそのかみの)皇子(みこ)、②→倉(くらの)皇子(みこ)、 ③→大兄(おおえの)皇子(みこ)(後の用明(ようめい)天皇)、 磐隈(いわくまの)皇女(ひめみこ)(伊勢の斎王)、 臘嘴鳥(あとりの)皇子(みこ)、 豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)尊(みこと)(後の推古天皇)、 椀子(まろこの)皇子(みこ)、大宅(おおやけの)皇女(ひめみこ)、 石上部(いそのかみべの)皇子(みこ)、 山背(やましろの)皇子(みこ)、大伴(おおともの)皇女(ひめみこ)、 桜井(さくらいの)皇子(みこ)、肩野(かたのの)皇女(ひめみこ)、 橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子(みこ)、舎人(とねりの)皇女 、④→茨城(うまらきの)皇子(みこ)、葛城(かずらきの)皇子(みこ)、 泥部(はしひとの)穴穂部(あなほぶの)皇女(ひめみこ)(用明(ようめい) 天皇の皇后で、聖徳太子(しょうとくたいし)の母)、 泥部(はしひとの)穴穂部(あなほぶの)皇子(みこ)、 泊瀬部(はつせべの)皇子(みこ)(後の崇竣(すしゅん)天皇)、 ⑤→春日(かすがの)山田(やまだの)皇女(ひめみこ)、 橘(たちばな)麻呂(まろの)皇子(みこ) 誕生=継体(けいたい)天皇3年(西暦509年) 立太子=――― 即位=宣化(せんか)天皇4年(西暦539年)12月5日 崩御=欽明(きんめい)天皇32年(西暦571年)4月15日 在位年数=33年 年齢=63歳 年号=ーーー 居=磯城島(しきしまの)金刺宮(かなさしのみや)(奈良県桜井市金屋) c.主な出来事 ①欽明(金めい)天皇元年(西暦539年)2月、百済(くだら)の人:己知部(こちふ)が帰化してきた。 元年(西暦539年)8月、高麗(こま)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)が使いを遣わして貢物を奉った。秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人も多かった。天皇は、色々の紛争のもとになっている新羅を討とうとされたが、非常に困難な状況であることから断念された。任那・百済は新羅の策謀にあって、苦境に立たされていた。任那は滅亡に追い込まれており、天皇は任那の復興を再三、命じておられた。長い年月を要しても進展しませんでした。 #
by ikawazukbr
| 2012-06-29 11:59
| 旅行記
2012年 06月 27日
(28)第28代:宣化(せんか)天皇
(武小広国押楯(たけおひろくにおしたての)天皇(すめらみこと)) (安閑(あんかん)天皇も同母弟) a.御陵 陵名=身狭(むさの)桃花鳥坂上(つきさかのへの)陵(みささぎ) 墳名=鳥屋ミサンザイ古墳 陵の形=前方後円(全長138m)・堀 所在地=奈良県橿原市鳥屋町 交通=近鉄橿原線「橿原神宮前駅」下車、バス「船付山口」下車すぐ b.履歴 御名・異称=武小広国押楯(たけおひろくにおしたての)尊(みこと) 檜隈高田(ひのくまたかだ) 父=継体(けいたい)天皇 母=尾張(おわりの)目子媛(めこひめの)命(みこと) 皇后=橘之(たちばなの)仲姫(なかつひめの)皇女(ひめみこ) 妃=大河内稚子(おおしこうちわくご)媛(ひめ) 皇子女=皇后→石姫(いしひめの)皇女(ひめみこ)、小石姫(こいしひめの)皇女 倉稚綾姫(くらのわかやひめの)皇女(ひめみこ)、 上殖葉(かみつうえはの)皇子(みこ)、 妃→火焔(ほのおの)皇子(みこ) 誕生=雄略(ゆうりゃく)天皇11年(西暦467年) 立太子=―――― 即位=安閑(あんかん)天皇2年(西暦535年)12月 崩御=宣化(せんか)天皇4年(西暦539年)2月10日 在位年数=5年 年齢=73歳 年号=――― 皇居=檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)(奈良県高市郡明日香村) c.主な出来事 各地の屯倉(みやけ)から樅種(もみたね)を集め、非常の年の備えとする倉を都に設けた、 #
by ikawazukbr
| 2012-06-27 10:13
| 旅行記
2012年 06月 25日
(27)第27代:安閑(あんかん)天皇
(広国押建(ひろくにおしたけ)金日(かなひの)天皇(すめらみこと)) a.御陵 陵名=古市(ふるいち)高屋(たかやの)丘陵(おかのみささぎ) 墳名=高屋築山古墳 陵の形=前方後円(全長121m)・堀 所在地=大阪府羽曳野市古市五丁目 交通=近鉄南大阪線「古市駅」下車、南へ600m b.履歴 御名・異称=広国押建(ひろくにおしたけ)金日(かなひの)尊(みこと) 勾(まがりの)大兄(おおえの)尊(みこと) 父=継体(けいたい)天皇 母=尾張(おわりの)目子媛(めのこひめの)命(みこと) 皇后=春日山田(かすがのやまだの)皇女(ひめみこ) 妃=①紗手媛(さてひめ)、②香香有媛(かかりひめ)(紗手媛の妹)、 ③宅媛(やかひめ) 皇子女=なし 誕生=雄略(ゆうりゃく)天皇10年(西暦466年) 立太子=継体(けいたい)天皇7年(西暦513年)12月8日【日本書記】 即位=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日 崩御=安閑(あんかん)天皇2年(西暦535年)12月17日 在位年数=5年 年齢=70歳 年号=――― 皇居=勾(まがりの)金橋宮(かなはしのみや)(奈良県橿原市曲川町) c.主な出来事 各地に屯倉(みやけ)が多く置かれた。関東への勢力が強くなって行った時代である。 #
by ikawazukbr
| 2012-06-25 10:01
| 旅行記
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