井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(26)第26代:継体(けいたい)天皇
    (男大迹(おおどの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=三嶋(みしまの)藍野(あいの)陵(みささぎ)
 墳名=太田茶臼山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=大阪府茨木市太田三丁目
 交通=JR東海道本線・JR京都線「摂津富田駅」げしゃ、西ヘ600m
      阪急電車「茨木氏駅」下車、近鉄バス「太田」下車、東へ300m

b.履歴
 御名・異称=男大迹(おおどの)尊(みこと)・彦太(びこふとの)尊(みこと)
          (応神天皇の五世孫)
 父=彦主人(ひこうしの)王(おおきみ)(応神天皇の四世孫)
 母=三国振媛(みくにのふりひめの)命(みこと)(垂仁天皇の七世孫)
 皇后=手白髪(たしらかの)皇女(ひめみこ)
 妃=①尾張(おわりの)目子媛(めのこひめ)、②稚子媛(わかこひめ)、③広媛(ひろひめ)、
    ④麻績娘子(おみのいらつめ)、⑤茨田関媛(まむたのたせきひめ)、
    ⑥倭媛(やまとひめ)、⑦荑媛(はえひめ)、⑧広媛(ひろひめ)
 皇子女=皇后→天国(あめくに)拝開(おしはらき)広庭(ひろにわの)尊(みこと)
            (後の欽明(きんめい)天皇)
       ①→広国押(ひろくにおし)武金日(ぶかかなひの)尊(後の安閑天皇)、
          武小(たけお)広国押楯(ひろくにおしたての)尊、(後の宣化天皇)、
       ②→大郎(おおいらつこの)皇子(みこ)、出雲(いずもの)皇女(ひめみこ)
       ③→神前(かむさきの)皇女(ひめみこ)、茨田(まむたの)皇女(ひめみこ)、
          馬来田(うまくたの)皇女(ひめみこ)、
       ④→荳角(きさげの)皇女(ひめみこ)(斎王)
       ⑤→茨田(まむたの)大郎(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、
          白坂(しらさか)活日姫(いくひひめの)皇女(ひめみこ)、
          小野稚娘(おののわかいらつめの)皇女(ひめみこ)
       ⑥→大郎子(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、椀子(まろこの)皇子(みこ)、
          耳(みみの)皇子(みこ)、赤姫(あかひめの)皇女(ひめみこ)
       ⑦→稚綾姫(わかやひめの)皇女(ひめみこ)、円娘(つぶらいらつめの)皇女、
          厚(あつの)皇子(みこ)
       ⑧→莵(うさぎの)皇子(みこ)、中皇子(なかつみこ)
 誕生=允恭(いんきょう)天皇39年(西暦450年)
 立太子=――――
 即位=継体(けいたい)天皇元年(西暦507年)2月4日
 崩御=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日
 在位年数=25年
 年齢=82歳
 年号=―――
 皇居=樟葉宮(くずばのみや)(大阪府枚方市楠葉)
      筒城宮(つつきのみや)(京都府綴喜群田辺町多々羅)
      弟国宮(おとくにのみや)(京都府京都市右京区大原町)
      磐余(いわれの)玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市池之内)

c.主な出来事
①皇統の断絶を救った第26代:継体(けいたい)天皇
 第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇は、西暦479年に崩御された。後を継がれたのは、白髪皇子と称された第22代:清寧(せいねい)天皇であるが、病弱のため御子がおられなかった。そこで、皇統のつながる血縁者を各地に探し求めたところ、清寧(せいねい)天皇の再従兄弟(またいとこ)にあたる二人の皇子が、播磨(兵庫県)に隠れ住んでいた。雄略(ゆうりゃく)天皇に殺された市辺押磐(いちべのおしいわの)皇子(みこ)の遺児である億計(おけの)王(みこ)と弘計(をけの)王(みこ)である。
 先に弟の弘計(をけの)王(みこ)が即位され、第23代:顕宗(けんそう)天皇となられるが在位わずか2年半で崩御された。そこで、兄の億計(おけの)王(みこ)が即位され、第24代:仁賢(にんけん)天皇となられる。その長男の小泊瀬(をはつせの)皇子(みこ)が即位され、第25代:武烈(ぶれつ)天皇となられ、8年在位されたが皇子(みこ)がなかった。
 この武烈(ぶれつ)天皇が西暦506年に崩御されたとき、皇位継承者が無く、皇位が断絶する危機に立ち至った。近従の臣達が相談して、越前の三国(みくに)におられた第15代:応神(おうじん)天皇の五世孫であるお男大迹(おおどの)尊(みこと)を探しだした。その王は諸臣の要請を入れ,まもなく践祚なされ、第26代:継体(けいたい)天皇となられた。

②継体(けいたい)天皇6元年(西暦513年)12月、百済(くだら)が、任那(みなま)の上哆唎(おこしたり)、、下哆唎(あめしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しいと願い出た。天皇はこれを与えた。
 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)6月、百済(くだら)が、五経博士:段楊爾(だんように)を奉った。別に「伴跛(はへ)の国が、百済(くだら)の己汶(こもん)の領土を奪いました。天皇によって元通りになるよう、お取り計らいいただきますようお願い致します」と上奏(じょうそう)した。
 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)11月、百済(くだら)の将軍が、新羅(しらぎ)・安羅(あら)・伴跛(はへ)の将軍を召しつれて来朝し、天皇から己汶(こもん)・滯沙(たさ)を百済(くだら)の国に賜った。
 この頃、百済(くだら)の国の近隣は、伴跛(はへ)の国、新羅(しらぎ)の国、任那(みまな)の国(日本府)等入り乱れての争乱が続いた時代であった。
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# by ikawazukbr | 2012-06-22 16:32 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(25)第25代:武烈(ぶれつ)天皇
    (小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷧(わかさざきの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=傍丘(かたおかの)磐坯(いわつきの)丘北(おかのきたの)陵(みささぎ)
 墳名=
 陵の形=山形・前面堀
 所在地=奈良県香芝市今泉
 交通=JR和歌山線「志都美駅」下車、西へ300m

b.履歴
 御名・異称=小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷧(わかさざきの)尊(みこと)
 父=第24代:仁賢(人けん)天皇
 母=春日(かすがの)大娘(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)
 皇后=春日(かすがの)娘子(いらつめに)命(みこと)
 皇子女=なし
 誕生=仁賢(じんけん)天皇2年(西暦489年)
 立太子=仁賢(じんけん)天皇7年(西暦494年)正月3日
 即位=仁賢(じんけん)天皇11年(西暦498年)12月
 崩御=武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)12月8日
 在位年数=9年
 年齢=18歳
 年号=―――
 皇居=泊瀬(はつせの)列城宮(なみきのみや)(奈良県桜井市出雲)

c.主な出来事
①法に詳しく、裁判を好み、罪を明らかにして厳罰に処した。

②暴虐な行為、淫らな行為などが、多く書かれている。

③百済との関係は、疎遠になりつつあった。
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# by ikawazukbr | 2012-06-19 18:01 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(24)第24代:仁賢(じんけん)天皇(億計(おけの)天皇(さめらみこと))
a.御陵
 陵名=埴生(はにゅうの)坂本(さかもとの)陵(みささぎ)
 墳名=野中ボケ山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=大阪府藤井寺市青山三丁目
 交通=近鉄南大阪線「藤井寺駅」下車、バス「野の上」下車、東南ヘ400m

b.履歴
 御名・異称=億計(おけの)尊(みこと)(大脚嶋郎(おおししまのいらつこ))
 父=市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)(履中(りちゅう)天皇の御子)
 母=母=荑媛(はえひめの)命(みこと)
 皇后=春日(かすがの)大娘(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)
      (雄略天皇と童女君の間に生まれた) 
 妃=糠(あら)君娘(きみのいらつめ)
 皇子女=高橋(たかはしの)大娘(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)、
       朝嬬(あさづまの)皇女(ひめみこ)、手白香(たしらかの)皇女(ひめみこ)、
       樟氷(くすひの)皇女(ひめみこ)、
       橘(たちばなの)皇女(ひめみこ)、小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷯(わかさざきの)尊
       (後の武烈(ぶれつ)天皇)、真稚(まわかの)皇女(ひめみこ)
 誕生=允恭(いんきょう)天皇38年(西暦449年)
 立太子=清寧(せいねい)天皇3年(西暦482年)4月7日
 即位=仁賢(じんけん)天皇元年(西暦488年)正月5日
 崩御=仁賢(じんけん)天皇11年(西暦498年)8月8日
 在位年数=11年齢=50歳
 年号=―――
 皇居=石上(いそのかみの)広高宮(ひろたかのみや)(奈良県天理市)

c.主な出来事
①仁賢(じんけん)天皇6年(西暦496年)9月、日鷹吉士(ひたかのきし)を高麗(こま)に遣(つか)わして、巧手者(てひと)を召された。

②この頃、国中に何事もなく、役人はみなその役にふさわしく、天下は仁(じん)に帰し、民はその業に安んじて、五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)で戸口は益々繁栄している情勢であった。
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# by ikawazukbr | 2012-06-18 13:51 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(23)第23代:顕宗(けんぞう)天皇(引計(をけの)天皇(すめらみこと))

a.御陵
  陵名=傍丘(かたおかの)磐坯丘南(いわつきのおかのみなみの)陵(みささぎ)
 墳名=
 陵の形=前方後円
 所在地=奈良県香芝市北今市
 交通=近鉄大阪線「下田駅」下車、北へ500m

顕宗(けんぞう)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第25代:武烈(ぶれつ) 天皇(てんのう)(小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷯(わかさざきの)
 天皇(すめらみこと))=傍丘磐坏(かたおかのいわつきの)丘北(おかのきたの)北陵

b.履歴
 御名・異称=来目稚子(くめのわくご)・引計(をけの)尊(みこと)(履中(りちゅう)天皇の孫)
 父=市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)(履中(りちゅう)天皇の御子)
 母=荑媛(はえひめの)命(みこと)
 備考:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)と荑媛(はえひめの)の御子は、
     ①入夏媛(いなつひめ)、②億計王(くけのみこ)(別名:嶋稚子(しまのわくご)・
     大石(おおいしの)尊(みこと))、③弘計王(をけのみこ)(別名:来目稚子
     (くめのわくご))、④飯豊青(いいとよのあおの)女王(ひめみこ)(別名:忍海部
     (おしぬべの)女王)、⑤橘王(たちばなのみこ)の5人である。
 皇后=難波(なにわの)小野王(おののおおきみ)(允恭(いんきょう)天皇の曽孫、
      磐城王(いわきのみこ)の孫、丘稚子王(おかのわくこのみこ)の娘)
 皇子女=なし
 誕生=允(いん)恭(きょう)天皇39年(西暦450年)
 立太子=――――
 即位=顕宗(けんぞう)天皇元年(西暦485年)正月1日
 崩御=顕宗(けんぞう)天皇3年(西暦487年)4月25日
 在位年数=3年
 年齢=38歳
 年号=―――
 皇居=近飛鳥(ちかつあすかの)八釣宮(やつりのみや)(奈良県高市郡明日香村八釣)

c.主な出来事
①安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)10月、父:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)は雄略(ゆうりゃく)天皇に殺されている。このため億計王(くけのみこ)、・弘計王(をけのみこ)らは逃げ隠れていた。播磨(はりまの)国の明石群でたまたま夜通しの酒宴になった折に身分を明かすことになった。

②皇太子であった億計王は、皇位を弘計王に譲ろうとされ、なかなか位につかれなかった。このため姉の飯豊青女王が、忍海角(おしぬみの)角刺宮(つのさしのみや)で朝政をなされた。

③ようやく顕宗(けんぞう)天皇元年(西暦485年)正月1日に即位。父:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)は難にあわれ、遺骸を埋めた場所も解らなかった。老婆:置目(おきめ)が「知っていると」と申し出たので、置目に案内されて行き掘り返してみると、お骨があったが、お傍にいた舎人(とねり)の骨と入り混じっており、見分けられなかった。そこで二っの陵を同じように造り、葬儀も同じようにされた。

④顕宗天皇2年(西暦486年)3月、顕宗天皇は、億計(おけ)皇太子に向い「雄略天皇への復讐のお想いが消えない。雄略天皇の墓を壊して仕返しをしたい」と申された。億計皇太子は、「雄略天皇は万機を統べて天下に照覧された。人みな喜び仰いだのである。わが父は天皇の子であるが天位に昇らなかった。そこに尊卑が異なって顕われている。私たちは清寧(せいねい)天皇(雄略天皇の御子)厚い寵愛と御恩を受けたので今日があるのではないか。雄略天皇が国を治められた徳行は天下に聞こえている。陵を壊しては、国に臨み人民を子とすることは出来ないだろう」と申された。顕宗天皇は「良いことを言ってくれた」と申され止められた。
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# by ikawazukbr | 2012-06-15 18:08 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(22) 第22代:清寧(せいねい)天皇
    (白髪(しらがの)武広国押(たけひろくにおし
      )稚本根子(わかやまとねこの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=河内(かわちの)坂門原(さかどのはらの)陵(みささぎ)
 墳名=西浦白髪山古墳
 陵の形=前方後円(全長130m)・堀
 在地=大阪府羽曳野市西浦六丁目
 交通=近鉄南大阪線「古市駅」下車、西南ヘ1200m(日本武尊白鳥陵の西)

b.履歴
 御名・異称=白髪(しらがの)武広国押(たけひろくにおし)
          稚日本根子(わかやまとねこの)尊(みこと)
 父=第21代:雄略天皇
 母=葛城韓媛(かつらぎのからひめの)命(みこと)
 皇妃=なし
 皇子女=なし
 誕生=允恭(いんきょう)天皇33年(西暦444年)
 立太子=雄略(ゆうりゃく)天皇22年(西暦478年)正月1日
 即位=清寧(せいねい)天皇元年(西暦480年)正月15日
 崩御=清寧(せいねい)天皇5年(西暦484年)正月16日
 在位年数=5年
 年齢=41歳
 年号=―――
 皇居=磐余(いわれの)甕栗宮(みかくりのみや)(奈良県桜井市池之内)

c.主な出来事
①清寧(せいねい)天皇が即位されたが、皇子が無かったので後継者を懸命に探しておられた。播磨(はりまの)国に第17代:履中(りちゅう)天皇の御子:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)の御子である、億計(おけの)尊(みこと)(後の仁賢(にんけん)天皇)と弘計(をけの)尊(みこと)(後の顕宗(けんぞう)天皇)が居られることが判明した。君として、大いに謹んで養い、億計王を皇太子に、弘計王を皇子とされた。
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# by ikawazukbr | 2012-06-14 13:32 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(21つづき)第21代:雄略天皇(つづき)

 中国南朝の『宋書』東夷伝(とういでん):倭国条(わこくじょう)に(宋は西暦420~479年)「讃(さん)・珍(ちん)・済(さい)・興(こう)・武(ぶ)」の五人が「倭王(わおう)」として記されている。
 この五人は、田中卓博士によって『古事記』・『日本書紀』と照合され、次のように比定されている。
 「讃(さん)王」とは、第16代:仁徳(にんとく)天皇(西暦313~399年)で、大阪平野の開発に努められ、西暦412年、中国南朝の宋(そう)の武帝(ぶてい)に使節を送っておられる。
 「珍(ちん)王」とは、第18代:反正(はんせい)天皇(西暦406~410年)で、河内の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)(松原市)に王宮を遷し、西暦438年、倭の「珍(ちん)王」として宋(そう)の文帝(ぶんてい)に使節を遣わしておられる。
備考:
 「讃(さん)王」(第16代:仁徳(にんとく)天皇(西暦313~399年))と「珍(ちん)王」(第18代:反正(はんせ  い)天皇(西暦406~410年))の間には、第17代:履中(りちゅう)天皇(西暦400~405年)がおられる  が、履中(りちゅう)天皇の御在位6年、反正(はんせい)天皇の御在位5年といずれも短い。

 「済(さい)王」とは、第19代:允恭(いんきょう)天皇(西暦412~453年)で、大和の遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)に王宮を遷し、西暦451年、宋(そう)から済(さい)王として「使持節都督倭、新羅(しらぎ)・任那(にんな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓(ぼから)、六国諸軍事、安東大将軍」の称号を授けられている。
 「興(こう)王」とは、第20代:安康(あんこう)天皇(西暦453~456年)で、西暦462年、宋(そう)の孝武帝(こうぶてい)からは「安東将軍」の称号しか認められていない。
 「武(ぶ)王」とは、第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇(西暦456~479年)で、泊瀬(はつせ)(桜井市長谷)の朝倉宮(あさくらのみや)に王宮を遷して、内政も外交も積極的に進められた。御名を「若建(わかたける)」・「稚武(わかたける)」と称する。埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄刀(てつとう)に、金で象崁(しょうかん)された115文字の和風漢文体の銘文が刻まれており、その中に「猨加多支鹵(わかたける)大王(おほきみ)」とあり、これが雄略天皇のお名前と一致することが、田中卓博士によって証明されている。
備考:
 この鉄刀は、昭和43年8月に稲荷山古墳から出土し、そのまま展示されていた。錆が進んで来たので永久保存の処理をするため、奈良県の元興寺の文化財研究所に昭和53年5月に送られて来た。
 女子研究員:大崎敏子氏が金泥粒(きんでいりゅう)に気付いたのが7月末であり、工業用レントゲン装置でエックス線を当てたところ銘文を発見、9月11日に115文字を確認した。
 昭和53年9月19日の毎日新聞:夕刊で大スクープとなった。
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# by ikawazukbr | 2012-06-13 09:51 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(21つづき)第21代:雄略天皇(つづき)

◎21代:雄略天皇の内政・外交
 雄略天皇は、恐ろしいほど気性の激しい方だったとも伝えられている。前帝の第20代:安康(あんこう)天皇が眉輪王(まやわのおうきみ)のために殺害された。それを知った弟の雄略天皇は、眉輪王だけでなく、その弑逆(しいぎゃく)に同調していると疑われた他の兄たちも皆殺しにしている。そのうえ「誤りて人を殺すこと衆(おお)き」ことが知れわたり、天下の人々から「大(はなはだ)だ悪しき天皇なり」と非難されたと書かれている。
 しかし、同時に愛情こまやかな面も有する天皇であったことは、『万葉集』卷一の冒頭に掲げられている「大泊瀬(おおはつせの)稚武(わかたけの)天皇(すめらみこと)」の「こもよ みこもち ・・・・・・ 」の御製からも窺(うか)がわれる。(別紙参照:『万葉集』卷一)
 また、「⑤葛城(かつらぎ)の一言主(ひとことぬしの)大神(おほかみ)」の項に見えるように、このことを知った人々から「徳まします天皇なり」と称賛されたという。
 内政上の事績では、葛城氏などと手を組んで、積極的に勢力を伸ばし、また、機織(はたおり)の巧みな秦氏(はたし)を集めて「太秦(うずまさ)」の姓を賜わり、製陶に長じた土師氏(はじし)を集めて「贄土(にえの)師部(はじべ)」をつくるなど、生産力の集中に努めて国家財政を充実させ、初めて「大蔵(おおくら)」を設けた。
 豊受大神が外宮に祭られたのもこの時代である。

 一方、外交面においては、日本に背いた新羅(しらぎ)を何度も攻めたが成功するに至らなかった。ただ、高句麗(こうくり)の侵入によって一旦滅びた「百済(くだら)」には、求められて救援に乗り出し、その再興を助けている。更に、中国南朝の昇明二年(西暦478)、宋(そう)に使節を送り、高句麗(こうくり)を除く朝鮮南部諸国に対する日本の優位を認めてもらおうとした。宋の順帝(じゅんてい)から改めて「使持節都督倭、新羅(しらぎ)・任那(にんな)・加羅(から)・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼから)、六国諸軍事、安東大将軍倭王」という高い称号を授けられている。
 このとき、倭王武から宋の順帝あてに奉った上表文は、堂々たる漢文で記されており、後の聖徳太子(しょうとくたいし)の上表文の如く高い意気を感じさせるものであった。(『宋書(そうしょ)』に書かれている)
 この当時の中国は、高度な文字文明を持っており、東アジア世界の最先進国と自負して、周辺の国々を未開な・東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狭(ほくてき)・と見下す“中華”意識が強く、現代にも影を写している。
 この中華帝国は、秦(しん)(西暦前247~前207年)・漢(かん)(西暦前206~220年)の昔から周辺の国々に文物を朝貢させ、官位などを授与して勢力下に置く“華夷(かい)体制”を形づくって来た。日本列島(特に九州)の小さな国々(後の都に相当)も、早くからそのような体制に組み込まれていた。西暦57年、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)から倭の汝国(ぬこく)(福岡県那珂郡あたり)の国王に授けられた金印に「漢委(かんのわの)汝国王(ぬこくおう)」とあり、また、三国時代の西暦239年、魏(ぎ)の明帝(みんてい)から邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)に賜った称号は「親魏(しんぎ)倭王(わおう)」と書かれている。九州から早く出て畿内へ遷った大和の王権も、その王権により統一されていく日本全体も、中国からは東夷の「倭国(わこく)」と称されている。その中心に立つ大王(おほきみ)(後に天皇)は、中国皇帝に朝貢して「倭王」の地位を認めてもらうことが、外交の要諦であった。
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# by ikawazukbr | 2012-06-12 09:27 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(21)第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇(つづき)

⑤雄略天皇4年(西暦460年)2月、葛城山に狩りにお出でになった。突然長身の人が出現したが、その人は一事主神(ひとことぬしのかみ)であった。共に狩りをし仲むつまじく過ごされ、人々はみな「天皇は徳のあるお方である」と評したという。

⑥雄略天皇4年(西暦460年)8月、吉野宮にお出になって狩りをされた。
 雄略天皇5年(西暦461年)5月、葛城山で狩りをされた。急に飛び出した猪に驚いて、木の上に逃げて震えている舎人(とねり)を斬ろうとされたが、皇后の諌めもあって思い留まられた。

⑦雄略天皇5年(西暦461年)4~7月、百済(くだら)と深い関係にあった。

⑧雄略天皇6年(西暦462年)3月、養蚕(ようさん)を奨励された。

⑨雄略天皇7年(西暦463年)8月、吉備(きびの)上道臣(かみつみちのおみ)田狭(たさ)が宮殿の近くにいて、友人たちに稚媛(わかひめ)を褒めて「天下の美人でも稚媛に優る者はいない。にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。お化粧もその必要がなく、久しい世にも比(たぐ)いまれな抜群の美女ですよ」と云うのを、聞かれた天皇は早速、稚媛を召して妃とされた。

⑩天皇は、田狭臣(たさおみ)の子の弟君(おときみ)らを、百済(くだら)に遣(つかわ)して優れた才伎(てひと)(工人)を求め、新羅(しらぎ)を討つことを命じられた。弟君らは新羅を討たずに帰った。才伎(工人)が日本に来た。また陶部(すえつくりの)高貴(こうくい)、鞍部(くらつくりの)堅貴(けんくい)、画部(えかきの)因斯羅我(いんしらが)、錦部(にしきごりの)定安那錦(じょうあんなこむ)、訳語卯(おきみよう)安那(あんな)ら新しい渡来人もやって来た。

⑩雄略天皇8年(西暦464年)2月、身狭(むさの)村主(すぐり)青(あお)、桧隅(ひのくまの)民使(たみのつかい)博徳(はかとこ)を呉国(ごのくに)に遣(つか)わされた。新羅国は八年に及び貢物を奉っておらず、高麗国(こまのくに)に守りを頼っていた。ところが高麗国の守りは本当でなく、新羅国の侵略をねらっていたのであった。新羅王は任那(みなま)王(日本府)に助けを求めて来た。任那王が兵を出して大いに高麗の軍を破った。

⑪雄略天皇9年(西暦465年)2月、宗像(むなかた)の神を祀らせた。

⑫雄略天皇9年(西暦465年)3月、天皇は「新羅は前から朝貢を重ねていたのに、私が王となってからは、対馬(つしま)の先まで乗り出し、高麗(こま)の貢を妨げたり、百済の城を取ったりして、自らの貢物を怠っている。汝らを将軍に任ずる.兵をもって攻め討ち天罰を加えよ。」と申され、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)らを遣わされた。新羅の兵は多くが討たれ、残兵もやがて退却し戦いは勝利に終った。

⑬雄略天皇20年(西暦476年)冬、高麗(こま)王が大軍をもって百済を攻め滅ぼした。少しばかりの生き残りがいたが、高麗王は「百済の国は日本の宮家として長らく存している。また、その王は天皇に仕えている。周りの国々も衆知のことである」として、そのままにされた。

 雄略天皇21年(西暦477年)3月、久麻那利(こむなり)を百済の汶州王(もんすおう)に賜わって、この国を救い再興された。人々は「百済国は一族すでに亡んで、倉下(へすおと)にわずかに残っていたのを、天皇の御威光によりまたその国を興した」と云った。

 雄略天皇23年(西暦479年)4月、百済の文斤王(ぶんこんおう)が亡くなった。天皇は昆支王(こんきおう)の五人の子の中で、二番目の末多王(またおう)が若いのに聡明なのを見て、その国の王とされた。兵器を与えられ、筑紫国の兵士500人を遣わして、国へ送り届けられた。これが東城王(とうせいおう)である。この年、百済からの貢物は優っていたという。
 筑紫の安致臣(あちのおみ)、馬飼臣(うまかいのおみ)らは、船軍を率いて高麗(こま)を討った。
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# by ikawazukbr | 2012-06-10 15:07 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(21)第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇
         (大泊瀬(おおはつせの)幼武(わかたけの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=丹比(たじひの)高鷲原(たかわしはらの)陵(みささぎ)
 墳名=高鷲丸山古墳+平塚古墳
 陵の形=円丘・堀
 所在地=大阪市羽曳野市島泉八丁目
 交通=近鉄南大阪線「高鷲駅」下車、北へ約600m

b.履歴
 御名・異称=大泊瀬(おおはつせの)幼武(わかたけの)尊(みこと)
 父=第19代:允恭(いんきょう)天皇
 母=忍坂(おしさか)大中姫(おおなかつひめの)命(みこと)
 皇后=草香(くさかの)幡梭姫(はたひひめの)皇女(ひめみこ)
 妃=韓媛(からひめ)(葛城(かつらぎの)円(つぶらの)大臣(おおおみ)の娘)、
    稚姫(わかひめ)(吉備(きびの)上道(かみのみちの)臣(おみ)の娘)、
    童女君(おみなぎみ)(春日(かすがの)和珥(わにの)臣(おみ)深目(ふかめ)の娘)
 皇子女=白髪(しらがの)武広国(たけひろくに)押稚(おしわか)日本(やまと)根子
       (ねこの)尊(みこと)(後の清寧(せいねい)天皇)、
       稚足姫(わかたらしひめの)皇女(ひめみこ)(伊勢の斎王(さいおう))
       磐城(いわきの)皇子(みこ)、星川稚宮(ほしかわのわかみやの)皇子(みこ)、
       春日(かすがの)大娘(いらつめの)皇女(ひめみこ)
 誕生=允恭(いんきょう)天皇7年(西暦418年)
 立太子=―――
 即位=安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)11月13日
 崩御=雄略(ゆうりゃく)天皇23年(西暦479年)8月7日
 在位年数=24年
 年齢=  歳
 年号=―――
 皇居=泊瀬(はつせの)朝倉宮(あさくらのみや)(奈良県桜井市岩坂)

c.主な出来事
①安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)8月9日、眉輪王(まよわのおうきみ)に殺されて、安康(あんこう)天皇が崩御された。原因は、安康天皇が「私は眉輪王(まよわのおうきみ)が怖い」と皇后と話しているのを影で聞いてしまった眉輪王が、天皇を怨んで昼寝中に殺害してしまったのである。雄略(ゆうりゃく)天皇は驚き怒られて、八釣(はちつ)白彦(しろびこの)皇子(みこ)、坂会(さかあいの)黒彦(くろびこの)皇子(みこ)。眉輪王(まよわのおうきみ)、坂会部(さかあいべの)連贄(むらじにえの)宿禰(すくね)、を攻め共に誅殺された。
備考:眉輪王=安康天皇の皇后:中蒂姫(なかしひめの)と先夫:大草香(おおくさかの)皇子(みこ)(仁徳天皇の御子)の間に生まれた。
坂会黒彦皇子=安康天皇の同母兄、雄略天皇の同母兄
八釣白彦皇子=安康天皇の同母弟、雄略天皇の同母兄
雄略天皇=安康天皇の同母弟

②安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)10月9日、安康天皇が生前に「磐坂(いわさかの)市辺押羽(いちのへのおしわの)(磐)皇子(みこ)(履中(りちゅう)天皇の御子)に皇位を譲ろうとされていた」ことを妬んだ雄略(ゆうりゃく)天皇は磐坂市辺押羽(磐)皇子を、更に御馬(みまの)皇子(みこ)(磐坂市辺押羽皇子の同母弟)を謀殺した。

③雄略天皇3年(西暦459年)4月、雄略天皇に対して、伊勢の斎王(さいおう)であった栲幡(たくはたの)皇女(ひめみこ)が(雄略天皇の御子で稚足姫(わかたらしひめの)皇女(ひめみこ)の別名)「妊娠している」と讒言した者があり、栲幡皇女が調べられた。栲幡皇女は「知らぬこと」と答えられた。
 栲幡皇女は急に神鏡を持ちだして、五十鈴川のほとりにおいでになり、人の行かぬ所を選んで神鏡を埋め、首をくくって死なれた。天皇は皇女の居られないことを疑われ、闇夜にあちこち探し求められた。すると川上に虹の掛かったところがあり、そこを掘ると神鏡が出てきた。近くに皇女の屍があった。腹を割いてみると。腹の中に水のようなものがあり、水の中には石があった。
 備考:この記事が天照大神の天の岩戸隠れに反映しているとする歴史学者もある。
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# by ikawazukbr | 2012-06-06 18:25 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(20)第20代:安康(あんこう)天皇(穴穂(あなほの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=菅原(すがはらの)伏見(ふしみの)西(にしの)陵(みささぎ)
 陵の形=方丘(中世城郭跡)・堀
 所在地=奈良県奈良市宝来四丁目
 交通=近鉄橿原線「尼ヶ辻駅」下車、バス「宝来」下車、西ヘ500m

b.履歴
 御名・異称=穴穂(あなほの)尊(みこと)
 父=第19代:允恭(いんきょう)天皇
 母=忍坂(おしさか)大中(おおなかつ)姫(ひめの)命(みこと)
 皇后=中蒂姫(なかしひめの)命(みこと)
 誕生=履中(りちゅう)天皇2年(西暦401年)
 立太子=――――
 即位=允恭(いんきょう)天皇42年(西暦453年)12月14日
 崩御=安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)8月9日
 在位年数=4年
 年齢=56歳
 年号=―――
 皇居=石上(いそのかみの)穴穂宮(あなほのみや)(奈良県天理市)

c.主な出来事
①允恭(いんきょう)天皇42年(西暦453年)正月14日、允恭天皇が崩御された。この時、木梨(きなしの)軽皇子(かるのみこ)が皇太子であったが、同母妹の大郎(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)を犯す等,淫乱であったことから群臣の信頼を失い、穴穂(あなほの)尊(みこと)(安康(あんこう)天皇)が即位することとなった。

②皇后の中蒂姫(なかしひめの)命(みこと)は、はじめ大草香(おおくさかの)皇子(みこ)(仁徳(にんとく)天皇と髪長媛(かみながひめ)の御子)との間に眉輪(まよわの)王(おうきみ)を生んでいる。安康(あんこう)天皇の崩御は、安康天皇3年(西暦456年)8月9日であるが、この眉輪(まよわの)王(おうきみ)に殺されたのである。(第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇の項で詳述する)
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# by ikawazukbr | 2012-06-04 10:39 | 旅行記