井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(32)第32代:崇峻(すしゅん)天皇(つづき)

c.主な出来事
①用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)4月、用明天皇が崩御されたとき、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)は、初めは穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)を天皇にしようと考えていたが、この時は心変わりしていた。

②用明天皇2年(西暦587年)6月、炊屋姫(かしきやひめの)を奉じた蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)は、軍兵を出して穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)の宮を囲み殺した。宅部(やかべの)皇子(みこ)(宣化(せんか)天皇の皇子)も心通じているとして殺した。

③用明天皇2年(西暦587年)7月、蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)大臣は、諸皇子と群臣を集めて、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)を滅ぼそうと謀った。蘇我の軍勢は、守屋の館を囲み攻めたてたが、物部の軍勢も強く蘇我の軍勢は三度も退却した。
 蘇我の軍勢の後に従っていた厩戸(うまやどの)皇子(みこ)は、急いで四天皇(してんのう)の像を作り束髪(そくはつ)の上に乗せ、「もし自分を勝たせて下さったら、必ず護世四王(ごぜしおう)の寺院を建てましょう」と誓いを立てて云われた。蘇我馬子宿禰も「寺院を建て三宝を広めます」と誓われた。そして武備を整え進撃し、物部の軍勢を撃ち破り物部守屋大連を殺した。乱が収まってから、摂津国(せっつのくに)に四天王寺(してんのうじ)をに造り、蘇我大臣は請願の通り、飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺(あすかでら))を建てた。

④崇峻(すしゅん)天皇元年(西暦587年)3月、百済(くだら)が使いをに遣わして、仏舎利(ぶっしゃり)を献上した。また百済国は、使いをに遣わして調(みつぎ)を献上し、同時に仏舎利(ぶっしゃり)と僧:聆照(りょうしょう)、律師(りつし)・令威(りょうい)・恵衆(えしゅう)・恵宿(えしゅく)・道巌(どうごん)・両開(りょうけ)らと、寺院建築工:太良(たら)未太(みだ)・文賈(もんけ)古子(こし)・鑢盤(ろばんの)博士(はかせ)の将徳白昧(しょうとくはくまい)淳(じゅん)・瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)・楊貴文(ようくいもん)・掕貴文(りょうくいもん)・昔麻帯弥(しゃくまたいみ)・画工(えたくみ)白加(びゃくか)を奉った。蘇我馬子宿禰は、百済の僧たちに受戒(じゅかい)の法を請い、以前から仏法に帰依し法会(ほうえ)に当っていた善信尼(ぜんしんに)らを、百済の使い恩卒首信(おんそつすしん)らにつけて、学問をさせるために出発させた。そして飛鳥に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺(あすかでら))を造った。

⑤崇峻(すしゅん)天皇3年(西暦590年)3月、善信尼(っぜんしんに)らが百済から帰り桜井寺に住んだ。この年、出家した尼は、貴人だけで12人を超えた。

⑥崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)10月、猪(いのしし)を奉る者があった。天皇は猪を見て「いつの日かこの猪の首を斬るように、自分が難いと思っている人を斬りたいものだ」と云われた。蘇我馬子宿禰は、この言葉を聞いて、また朝廷で武器を集めることが、いつもと違っているように思えて、天皇が自分を嫌っていると思ってしまい、天皇を弑(しい)することを謀(はか)った。部下を使って5年(西暦592年)11月3日に天皇を弑したてまつった。
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# by ikawazukbr | 2012-07-09 17:34 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
【 ニュース 】
産経新聞が平成24年7月4日から、『日本人の源流 神話を訪ねて』古事記編纂1300年 を連載している。
原文を詳しく述べているのではないが、大きなテーマごとに歴史学・考古学・風土記など、多方面から記述を加えている。、

(32)第32代:崇峻(すしゅん)天皇(泊瀬部(はつせべの)天皇(すめらみこと))

a.御陵
 陵名=倉梯(くらはしの)岡上(おかのへの)陵(みささぎ)
 墳名=
 陵の形=円丘
 所在地=奈良県桜井市大字倉橋
 交通=JR線「桜井駅」下車、バス「倉橋」下車すぐ。

崇峻(すしゅん)天皇(てんのう)の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第34代:舒明(じょめい) 天皇(てんのう)(息長足(おきながたらし)日広額(ひひろぬかの)
       天皇(すめらみこと))=押坂内(おしさかのうちの)陵(みささぎ)

b.履歴
 御名・異称=泊瀬部(はつせべの)尊(みこと)
 父=欽明(きんめい)天皇
 母=蘇我(そがの)小姉(おあねの)君(きみ)
 皇后=大伴(おおともの)小手子(こてこ)(蘇我稲目宿禰(そがのいなめのすくね)の娘)
 皇子女=蜂子(はちのこの)皇子(みこ)、錦代(にしきての)皇女(ひめみこ)
 誕生=―――
 立太子=――――
 即位=用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)8月2日
 崩御=崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)11月3日
 在位年数=6年
 年齢=―――
 年号=―――
 皇居=倉梯(くらはしの)柴垣宮(しばかきのみや)(奈良県桜井市倉橋)
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# by ikawazukbr | 2012-07-07 10:27 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(31)第31代:用明(ようめい)天皇
         (橘(たちばなの)豊日(とよひの)天皇(すめらみこと))

a.御陵
 陵名=河内(かわちの)磯長原(しながのはらの)陵(みささぎ)
 墳名=春日向山古墳
 陵の形=方丘・空堀
 所在地=大阪府南河内郡太子町大字春日
 交通=近鉄南大阪線「貴志」下車、バス「春日口」下車、南へ400m

b.履歴
 御名・異称=橘(たちばなの)豊日(とよひの)尊(みこと)
 父=欽明(きんめい)天皇
 母=堅塩媛(きたしひめ)(蘇我稲目の娘)
 皇后=穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)
 妃=①石寸女(いしきな)(蘇我大臣馬子宿禰の娘)、②広子(ひろこ)
 皇子女=皇后→厩戸(うまやどの)皇子(みこ)(備考①)、来目(くめの)皇子(みこ)、
            殖栗(えくりの)皇子(みこ)、茨田(まんだの)皇子(みこ)
       妃①→田目(ための)皇子(みこ)(別名=豊浦(とようら)皇子(のみこ))、
       妃②→麻呂子(まろこの)皇子(みこ)、
            酢香手姫(すかてひめの)皇女(ひめみこ)(伊勢の斎王)
 誕生=欽明(きんめい)天皇元年(西暦540年)
 立太子=――――
 即位=敏達(びたつ)天皇14年(西暦585年)9月5日
 崩御=用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)4月9日
 在位年数=3年
 年齢=48歳
 年号=―――
 皇居=磐余(いわれの)池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)
      (奈良県桜井市阿倍磐余池の辺)

備考①=厩戸(うまやどの)皇子(みこ)は、別名を豊耳聡(とよとみみみ)聖徳(しょうとく)、豊聡耳(とよとみみの)法大王(のりのおおきみ)、法主(のりのうしの)王(おおきみ)と言われる。有名な聖徳太子(しょうとくたいし)のことである。
 初め上宮(かみつみや)にお住まいになり、後に斑鳩(いかるが)に移られた。推古(すいこ)天皇の御世に皇太子となられ、総ての政務(せいむ)を統括(とうかつ)して天皇の代理をされた。推古天皇の所で詳しく説明する。

c.主な出来事
①用明(ようめい)天皇元年(西暦586年)5月、穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)(欽明(きんめい)天皇の皇子)が炊屋姫(かしやきひめ)(敏達(びたつ)天皇の皇后・後の推古(すいこ)天皇)を犯そうとして、殯宮(もがりのみや)に押し入ろうとした。敏達天皇の寵臣(ちょうしん)であった三輪君(みわのきみ)の逆(さかう)が宮門を固めて入れなかった。穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)は、自分の賎しい行動を隠して、逆(さかう)を悪者に仕立てて終には殺した。逆(さかう)は敏達天皇の信頼あつく、すべてを任せられる程であった。炊屋姫(かしきやひめの)と蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)は、穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)を怨むようになった。

②用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)4月、用明天皇は病(疱瘡ほうそう)にかかられた。天皇は「私は、仏・法・僧の三宝に帰依したい」と申されたが、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)は、あくまでも反対した。鞍部(くらつくりべ)の多須奈(たすな)が「自分が天皇のために出家して修行し、丈六(じょうろく)の仏と寺を造ります」と奏上した。坂田寺の木造:丈六の仏と脇侍(わきじ)の菩薩たちがこれである。
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# by ikawazukbr | 2012-07-05 11:48 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(30)第30代:敏達(びたつ)天皇(つづき)

c.主な出来事
①新羅(しらぎ)(高句麗(こうくり))を制して、百済(くだら)を頼んで、任那(みなま)を復興しょうとされていたが、思うようには進展しなかった。

②敏達天皇3年(西暦574年11月、新羅(しらぎ)が調(みつぎ)をたてまつった。
 敏達天皇4年(西暦575年2月、新羅が調をたてまつった。
 敏達天皇4年(西暦575年6月、新羅が調をたてまつった。
 敏達天皇6年(西暦577年11月、百済(くだら)が経論(きょうろん)若干と律子(りつし)、禅師(ぜんし)、比丘尼(びくに)、呪禁師(じゅこんのはかせ)、造仏工(ほとけつくるたくみ)、造寺工(てらつくるたくみ)の六人を献上してきた。
 敏達天皇7年(西暦578年3月、新羅が調をたてまつり、仏像も送ってきた。
 敏達天皇9年(西暦580年6月、11年(西暦582年10月と続けて、新羅が調をたてまつったが、納められず返された。

③敏達天皇13年(西暦584年9月、百済(くだら)から、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の石像一体と別の仏像一体を持ってきた。蘇我馬子(そがのうまこ)がその二体を請い受けて仏法に帰依した。仏殿を造り安置し、尼僧に供養させた。法会(ほうえ)のとき仏舎利(ぶつしゃり)が見つかった。
塔を建て法斎(ほうさい)を行い、塔の心柱の下におさめた。蘇我大臣馬子宿禰(そがのおおおみうまこのすくね)を初めとして、仏法を修業する人が増えていった。

④敏達天皇14年(西暦585年3月、物部(もののべの)弓削(ゆげの)守屋(もりやの)大連(おおむらじ)と中臣(なかとみの)勝海(かつみの)太夫(まえつきみ)が奏上して、「欽明(きんめい)天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありません」と云った。天皇は「これは明白である。早速、仏法をやめよ」と申された。物部弓削守屋大連は自ら寺に赴(おもむ)き、塔を伐り倒させ、火をつけて焼いた。同時に仏像と仏殿も焼いた。焼け残った仏像は、難波の堀江に捨てさせた。疱瘡(ほうそう)にかかり死ぬ者が多くなった。自分の病が長いこと良くならない蘇我大臣馬子宿禰は、仏法の復活を天皇に願い出るが、「お前一人だけに許す。他の人に広めてはならない」と申された。改めて寺院を造り、仏像を迎え入れて、供養した。蘇我大臣馬子宿禰と物部弓削守屋大連との仲違いが大きくなった。
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# by ikawazukbr | 2012-07-03 16:32 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(30)第30代:敏達(びたつ)天皇
         (渟中倉(ぬなかくら)太珠敷(ふとたましきの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=河内(かわちの)磯長(しながの)中尾(なかのおの)陵(みささぎ)
 墳名=太子西山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=大阪府南河内郡太子町大字太子
 交通=近鉄南大阪線「貴志駅」下車、バス「仏眼寺」下車、西へ400m

敏達天皇の陵の近くにある御陵
 第31代:用明(ようめい) 天皇(橘(たちばなの)豊日(とよひの)天皇
  (すめらみこと))=河内(かわちの)磯長原(しながのはらの)陵(みささぎ)
 第33代:推古(すいこ) 天皇(豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇)
  磯長(しながの)山田(やまだの)陵(みささぎ)
 第36代:孝徳(こうとく) 天皇(天万(あめよろず)豊日(とよひの)天皇)=
  大阪(おおさかの)磯長(しながの)陵(みささぎ)
 聖徳太子(しょうとくたいし)の墓=叡福寺(えいふくじ)北古墳:聖徳太子
  (しょうとくたいし)御廟(ごびょう)(大阪府南河内郡太子町)

b.履歴
 御名・異称=訳語田(おきたの)渟中倉(ぬなかくら)太珠敷(ふとたましきの)尊(みこと)
 父=欽明(きんめい)天皇
 母=石媛(いしひめの)皇女(ひめみこ)
 皇后=①広姫(ひろひめ)、②豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)命(みこと)
  (額田部(ぬかたべの)皇女(ひめみこ)・推古(すいこ)天皇)
 妃=①老女子(おみなごの)夫人(おおとじ)(別名=薬君娘(くすりこのいらつめ))、
    ②莵名子(うなこの)夫人(おおとじ)
 皇子女=皇后①→押坂彦人(おしさかのびこひとの)大兄(おおえの)皇子(みこ)
              (舒明(じょめい)天皇の父)、逆登(さかのぼりの)皇女(ひめみこ)、
             莵道(うじの)磯津貝(しつかいの)皇女(ひめみこ)、
       皇后②→莵道(うじの)貝鮹(かいたこの)皇女(ひめみこ)(別名=莵道(うじの)
              磯津貝(しつかいの)皇女(ひめみこ)、聖徳太子の妃)、
             竹田(たけだの)皇子、小墾田皇女(彦人大兄皇子の妃)、
             鸕鶓守(うもりの)皇女(ひめみこ)(別名=軽守(かるのもりの)皇女)、
             尾張(おわりの)皇子(みこ)、田蔀(たべの)皇女(舒明天皇の妃)、
             桜井(さくらい)弓張(ゆみはりの)皇女(ひめみこ)
       妃①→難波(なにわの)皇子(みこ)、春日(かすがの)皇子、桑田(くわたの)皇女
            (ひめみこ)、大派(おおまたの)皇子(みこ)、
       妃②→太姫(ふとひめの)皇女(ひめみこ)(別名=桜井(さくらいの)皇女)、
            糠手(ぬかて)姫(ひめの)皇女(ひめみこ)(別名=田村(たむらの)皇女、
            舒明(じょめい)天皇の母) 
 誕生=宣化(せんか)天皇3年(西暦538年)
 立太子=欽明(きんめい)天皇15年(西暦554年)正月7日
 即位=敏達(びたつ)天皇元年(西暦572年)4月3日
 崩御=敏達(びたつ)天皇14年(西暦585年)8月15日
 在位年数=14年
 年齢=48歳
 年号=―――
 皇居=百済(くだらの)大井宮(おおのいみや)(大阪府富林市)
      訳語田(おきたの)幸玉宮(さきたまのみや)(奈良県桜井市戒重)
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# by ikawazukbr | 2012-07-02 16:44 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(29)第29代:欽明天皇(つづき)

③欽明(きんめい)天皇23年(西暦562年)1月、新羅(しらぎ)は、遂に任那(みまな)の宮家を打ち滅ぼした、加羅国(からのくに)・安羅国(あらのくに)・斯二岐国(しにきのくに)・多羅国(たらのくに)・卒麻国(そつまのくに)・古嵯国(こさのくに)・子他国(したのくに)・散半下国(さんぱんげのくに)・乞飡国(こつさんのくに)・稔礼国(にむれのくに)の十国を云う。
 23年(西暦562年)7月、天皇は、新羅(しらぎ)を打つよう将兵を遣わしたが、百済と結んだ戦闘計略が漏れて、新羅の残虐な攻めに合い、遂には敗北に終わった。
 23年(西暦562年)8月、天皇は、数万の将兵を遣わして、高麗(こま)を討たせた。百済(くだら)の助けも得て高麗を撃破した。
 天皇は、死の床にあっても、「新羅(しらぎ)を討って、任那(みなま)を封じ建てよ。そしてかつての如く両者相和する仲となるようにせよ」と気に掛けておられた。

④欽明天皇と姪の皇后石姫(いわひめ)との間に生まれた嫡嗣が、西暦572年、即位して、第30代:敏達(びたつ)天皇となられた。「仏法を信(う)けず、文史(儒書(じゅしょ))を愛(この)みたまふ」と書かれている。前代から疫疾(えきしつ)の流行による死者が絶えないので、西暦585年、「仏法を断めよ」と命じておられる。
 次にその異母弟が即位して、第31代:用明(ようめい)天皇となられた。「仏法を信(う)け、神道を尊びたまふ」と書かれている。「仏法」を信仰されたのは、母が蘇我(そがの)稲目(いなめ)の娘:堅塩媛(かたしひめ)であるからその影響であろうが、同時に皇女の酢香手媛(すかてひめ)を「伊勢の神宮に拝して日神(天照大神)の祀りに奉らせておられる」など、古来の「神道」も尊崇しておられた。
 仏教に賛意を表している蘇我馬子(そがのうまこ)と、反対する物部氏(もののべし)・中臣氏(なかとみし)に、次の皇位をめぐる争いが絡み、西暦5857年、蘇我馬子のために物部氏は滅ぼされてしまったのである。そして、蘇我馬子の甥にあたる泊瀬部(はつせべの)皇子(みこ)が擁立され、第32代:崇峻(すしゅん)天皇となられたのである。
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# by ikawazukbr | 2012-07-01 14:33 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(29)第29代:欽明(めい)天皇(つづき)

②仏教を慎重に受容した欽明(きんめい)天皇
 仏教が百済(くだら)から日本へ公式に伝来したのは、欽明(きんめい)天皇7年(西暦538年)である。百済の聖明(せいめい)王(在位:西暦523~554年)が仏像と経典を献り、「この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)(儒教の始祖)も知ることができませんでした。・・・・帝(みかど)(日本)に伝え奉ります。国内に流通させてください」と推奨してきた。
 それに対して、欽明天皇は、妙なる仏教の到来を喜びながら、重臣たちに「百済の献れる仏のお顔は端麗の美を備えておられ、全く未曾有のものである。これを祀るべきかどうであろう」と意見を求められた。
 すると、新興勢力の蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)は直ちに賛意を表した。しかし、古参の物部(もののべの)大連(おおむらじ)尾輿(おこし)・中臣連(なかとみのむらじ)鎌子(かまこ)は、従来「わが国家(みかど)の天下に王(おおきみ)とましますのは、恒に天地社稷(しゃしょく)の百八十神(ももやそかみ)を以て春夏秋冬に祭拝(まつり)したまうからであり、今後、改めて蕃神(となりかみ)(仏)を拝みたまえば、恐らく国神(くにつかみ)の怒りをうけることになるでしょう」と反対を唱えています。
 そこで天皇は、即決を避けられ、とりあえず仏像などを蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)に
対して「試みに礼拝するよう」に指示された。古来の神衹(じんき)祭祀(さいし)を主催して来られた天皇は、外来の仏教に感心しても、その受容には慎重を期されたのである。すると、しばらくして国内に疫病が流行し、多くの人々が病死した。そのため、物部(もののべの)尾輿(おこし)らの反対派の奏請により、「仏像を難波の堀江に流し捨て、また火を伽藍(寺)に火を付け焼き尽くす」に至った。一方、蘇我氏のほうでも仏教だけを信仰したわけではなく、例えば、西暦555年、百済の聖明王が新羅(しらぎ)と戦って遂に殺されたことを知らせてきた王子恵(けい)に対し、「初め国を建てられた神、即ち天より降り来まして国家(日本)を造り立てられた神である。汝が国(百済)は、これを啜(す)てて祀らずにいたので今日のようになったのである。まさに今、前の過ちを悛(あらた)め悔いて、神の宮を修い理(おさ)め、神の霊を請い招いてお祈りしたならば、国は栄えるだろう」と、むしろ神祭を励行するように諭しておられる。
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# by ikawazukbr | 2012-06-30 17:29 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(29)第29代:欽明(きんめい)天皇
         (天国排開(あめくにはいはるき)広庭(ひろにわの)天皇(すめらみこと))
         (安閑(あんかん)天皇・宣化(せんか)天皇の異母弟)
a.御陵
 陵名=檜隈坂合(ひきくまのさかあいの)陵(みささぎ)
 墳名=平田梅山古墳
 陵の形=前方後円(全長138m)・堀
 所在地=奈良県高市郡明日香村大字平田
 交通=近鉄吉野線「飛鳥駅」下車、北東へ600m

欽明天皇の陵の近くにある御陵
 第40代:天武(てんむ) 天皇(天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)
  天皇(すめらみこと))=檜隈(ひのくまの)大内(おおうちの)陵(みささぎ)
 第41代:持統(じとう) 天皇(高天原(たかまのはら)広野姫(ひろのひめの)天皇)=
  檜隈(ひのくまの)大内(おおうちの)陵(みささぎ)
 第42代:文武(もんむ)天皇(倭根子(やまとねこ)豊祖父(とよおじの)天皇)=
  檜隈(ひのくまの)安古岡上(あこのおかのへの)陵(みささぎ)
 他に、高松塚(たかまつづか)古墳、見瀬丸山(みせまるやま)古墳があります。

b.履歴
 御名・異称=天国排開(あめくにはいはるき)広庭(ひろにわの)尊(みこと)
 父=継体(けいたい)天皇
 母=手白髪(てしらかの)皇女(ひめみこ)
 皇后=石姫(いしひめの)皇女(こうひめみこ)(宣化(せんか)天皇の皇女)
 妃=①稚綾姫(わかあやひめの)皇女(ひめみこ)(皇后の妹)、
    ②日影皇女(皇后の妹)、
    ③堅塩媛(きたしひめ)(蘇我大臣(おおおみ)稲目宿禰の娘)、
    ④小姉(おあねの)君(きみ)(堅塩媛(きたしひめ)の同母妹)、⑤糠子(あらこ)
 皇子女=皇后→葥田(やたの)珠勝(たまかつ)大兄(おおえの)皇子(みこ)、
            訳語田(おさたの)渟中倉(ぬなくらの)太珠敷(ふとたましきの)尊=
            (後の敏達(びたつ)天皇)、笠縫(かさぬいの)皇女(ひめみこ)
       妃①→石上(いそのかみの)皇子(みこ)、②→倉(くらの)皇子(みこ)、
        ③→大兄(おおえの)皇子(みこ)(後の用明(ようめい)天皇)、
           磐隈(いわくまの)皇女(ひめみこ)(伊勢の斎王)、
           臘嘴鳥(あとりの)皇子(みこ)、
           豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)尊(みこと)(後の推古天皇)、
           椀子(まろこの)皇子(みこ)、大宅(おおやけの)皇女(ひめみこ)、
           石上部(いそのかみべの)皇子(みこ)、
           山背(やましろの)皇子(みこ)、大伴(おおともの)皇女(ひめみこ)、
           桜井(さくらいの)皇子(みこ)、肩野(かたのの)皇女(ひめみこ)、
           橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子(みこ)、舎人(とねりの)皇女
       、④→茨城(うまらきの)皇子(みこ)、葛城(かずらきの)皇子(みこ)、
           泥部(はしひとの)穴穂部(あなほぶの)皇女(ひめみこ)(用明(ようめい)
            天皇の皇后で、聖徳太子(しょうとくたいし)の母)、
           泥部(はしひとの)穴穂部(あなほぶの)皇子(みこ)、
           泊瀬部(はつせべの)皇子(みこ)(後の崇竣(すしゅん)天皇)、
        ⑤→春日(かすがの)山田(やまだの)皇女(ひめみこ)、
           橘(たちばな)麻呂(まろの)皇子(みこ)
 誕生=継体(けいたい)天皇3年(西暦509年)
 立太子=―――
 即位=宣化(せんか)天皇4年(西暦539年)12月5日
 崩御=欽明(きんめい)天皇32年(西暦571年)4月15日
 在位年数=33年
 年齢=63歳
 年号=ーーー
 居=磯城島(しきしまの)金刺宮(かなさしのみや)(奈良県桜井市金屋)

c.主な出来事
①欽明(金めい)天皇元年(西暦539年)2月、百済(くだら)の人:己知部(こちふ)が帰化してきた。
 元年(西暦539年)8月、高麗(こま)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)が使いを遣わして貢物を奉った。秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人も多かった。天皇は、色々の紛争のもとになっている新羅を討とうとされたが、非常に困難な状況であることから断念された。任那・百済は新羅の策謀にあって、苦境に立たされていた。任那は滅亡に追い込まれており、天皇は任那の復興を再三、命じておられた。長い年月を要しても進展しませんでした。
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# by ikawazukbr | 2012-06-29 11:59 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(28)第28代:宣化(せんか)天皇
    (武小広国押楯(たけおひろくにおしたての)天皇(すめらみこと))
    (安閑(あんかん)天皇も同母弟)
a.御陵
 陵名=身狭(むさの)桃花鳥坂上(つきさかのへの)陵(みささぎ)
 墳名=鳥屋ミサンザイ古墳
 陵の形=前方後円(全長138m)・堀
 所在地=奈良県橿原市鳥屋町
 交通=近鉄橿原線「橿原神宮前駅」下車、バス「船付山口」下車すぐ

b.履歴
 御名・異称=武小広国押楯(たけおひろくにおしたての)尊(みこと)
          檜隈高田(ひのくまたかだ)
 父=継体(けいたい)天皇
 母=尾張(おわりの)目子媛(めこひめの)命(みこと)
 皇后=橘之(たちばなの)仲姫(なかつひめの)皇女(ひめみこ)
 妃=大河内稚子(おおしこうちわくご)媛(ひめ)
 皇子女=皇后→石姫(いしひめの)皇女(ひめみこ)、小石姫(こいしひめの)皇女
            倉稚綾姫(くらのわかやひめの)皇女(ひめみこ)、
            上殖葉(かみつうえはの)皇子(みこ)、        
       妃→火焔(ほのおの)皇子(みこ)
 誕生=雄略(ゆうりゃく)天皇11年(西暦467年)
 立太子=――――
 即位=安閑(あんかん)天皇2年(西暦535年)12月
 崩御=宣化(せんか)天皇4年(西暦539年)2月10日
 在位年数=5年
 年齢=73歳
 年号=―――
 皇居=檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)(奈良県高市郡明日香村)

c.主な出来事
 各地の屯倉(みやけ)から樅種(もみたね)を集め、非常の年の備えとする倉を都に設けた、
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# by ikawazukbr | 2012-06-27 10:13 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(27)第27代:安閑(あんかん)天皇
   (広国押建(ひろくにおしたけ)金日(かなひの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=古市(ふるいち)高屋(たかやの)丘陵(おかのみささぎ)
 墳名=高屋築山古墳
 陵の形=前方後円(全長121m)・堀
 所在地=大阪府羽曳野市古市五丁目
 交通=近鉄南大阪線「古市駅」下車、南へ600m

b.履歴
 御名・異称=広国押建(ひろくにおしたけ)金日(かなひの)尊(みこと)
         勾(まがりの)大兄(おおえの)尊(みこと)
 父=継体(けいたい)天皇
 母=尾張(おわりの)目子媛(めのこひめの)命(みこと)
 皇后=春日山田(かすがのやまだの)皇女(ひめみこ)
 妃=①紗手媛(さてひめ)、②香香有媛(かかりひめ)(紗手媛の妹)、
    ③宅媛(やかひめ)
 皇子女=なし
 誕生=雄略(ゆうりゃく)天皇10年(西暦466年)
 立太子=継体(けいたい)天皇7年(西暦513年)12月8日【日本書記】
 即位=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日
 崩御=安閑(あんかん)天皇2年(西暦535年)12月17日
 在位年数=5年
 年齢=70歳
 年号=―――
 皇居=勾(まがりの)金橋宮(かなはしのみや)(奈良県橿原市曲川町)

c.主な出来事
 各地に屯倉(みやけ)が多く置かれた。関東への勢力が強くなって行った時代である。
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# by ikawazukbr | 2012-06-25 10:01 | 旅行記