井蛙見聞録
ikawazukbr.exblog.jp

井の中の蛙見聞録
<   2012年 07月 ( 15 )   > この月の画像一覧
筆者近況報告1
ニュース[筆者近況報告1]

 不覚なり! と云うより“なるべくして“こうなった”と云う方が当っているのだろう。
 去る平成24年7月25日(水)朝方から、腰にピリピリする鋭い痛みが走り、起き上がれなくなった。近くの病院にお願いしておいて、娘の車で行くことにした。痛みを堪えてようやく立ち上がったものの、腰の力が抜けたようにその場に落ち込んだ。歩けそうもないので、ご近所をお騒がせすることになるのを気にしながら、やむなく初めての救急車をお願いし運んで貰った。
 整形外科で、一週間くらい入院して治療をしながら、他の検査も行うことになった。レントゲン・MRI・CT等、腰は痛いながら何とか受けた。結果の詳細は、8月6日(月)以降でないと判らないが、今、判る所では、特に異常はなさそうだとのこと。肺に少し水が溜まっているようだが、外来に来れば良いとの事。自力で歩けるようになったので、一先ず29日(日)昼前に帰宅できた。この4・5日というもの、妻や子供達に、大変心配を掛けお世話をかけた。
 8月6日(月)に通院した時、告げられる詳細な結果は、さて、どうなるやら。

 昨年2月初めに、妻が甲状腺炎で体調を崩し、以来1年半、体力が回復していない。自分も、慢性的な腰痛を抱えながら、頑張り通してきたが、神の子を知っているつもりでいながら、信念が薄れ肉体が肉体がと頑張っていたようだ。
 ベッドで静養させてもらいながら、2日目の午後になって、普及誌を隅から隅までゆっくりと読むうちに気がついた。それは、いつの間にか自分の心も生活も乱れてしまっていたことである。すぐに皆んなに感謝の祈りを奉げ、聖経を繰り返し読み続けた。“治してください”と願って読誦したのではありません。ただただ、お世話をかけた皆んなへの感謝と、自分へのお詫びと祝福でした。
 1日目は寝たきり、2日目は車イスに乗せられて、3日目は車イスを後から押して、4日目は自分で歩行、5日目午前中に退院できた。

 3日目の夜、9時に消灯して横になると直に、腰がバリバリと鳴った。一瞬また悪くなったかと思ったが、痛みが大きくなったわけでもない。起き上がれるし、歩ける、無事だ。ありがとうございます。
 この時、思いだしたことがある。総本山の体験集で見たのだろうと思うが、ある婦人が腰痛ながら、奥津城へ登る山道の途中で、子供を背負わねばならない状況になった。これは大変なことになったと思ったが、子供を背負って登りはじめた。その時、腰がバリバリと鳴って砕けたかと思った。しかし、痛みもなくそれきり治っていたという。自分も、歪みが起きて骨と神経が接触して激しい痛みを与えていたのが、正常な状態に戻る時の音ではないか、内なる神が働き給うのを妨げる我の心が少しは減ったのかと思った。

 これからは、神想観・聖経読誦・聖典拝読・愛行、今の自分に出来ることは不十分かもしれないが、やれることから実行しようと改めて決意した。
 斯様な理由で“みささぎ巡拝の薦め”を1週間ほど休んでしまったのである。また、明日から復活する予定です。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-31 16:11 | 日記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき7)

(33特3)山口悌治(やすはる)先生の著書『万葉の世界と精神』より
聖徳太子(しょうとくたいし)に関して、山口悌治先生の著書『万葉の世界と精神』の中から一部を抜粋させていただきます。

①聖徳太子(しょうとくたいし)の悲願(95~96ページ)
 日本歴史の第一のピークは、神武天皇による「中(みなか)」の理念の現成(げんじょう)を母体としての真理国家、すなわち大和(だいわ)国家の創建であった。第二のピークは、宗神(すじん)天皇の「中(みなか)」の理念の展開としての祭祀の総攬を精神的基盤とする、大和(だいわ)国家の全国的展開と、国民意識の統一であった。第三のピークである飛鳥(あすか)維新(いしん)の課題は、何であったろうか。それは、大和(だいわ)国家の理念である「中(みなか)」を、政治(まつりごと)の原理として確立することであった。この大和の国を、真に正法の支配する真理国家たらしめる事であった。そしてそれを阻害する蘇我(そが)一族の権勢等の害悪は、是正されなければならぬ。これが聖徳太子の悲願であり、この課題に全力で取り組まれたのが聖徳太子であった。

備考:「中(みなか)」の理念とは、谷口雅春先生が著書『古事記と現代の預言』の中で次のように説いておられます。
「・・・支那(しな)の『中庸(ちゅうよう)』という書物に、「喜怒哀楽(きどあいらく)未だ発せざるを中(ちゅう)と謂う。発して節(せつ)に当たるこれを和(わ)と謂う」と書かれておりますが、その「中(ちゅう)」が天之(あめの)御中主(みなかぬしの)神(かみ)の「ミナカ」であり、これを「未発(みはつ)の中(ちゅう)」というのです。
 「発せず」というのは「まだ起こらない」ということで、つまり現象が未だ起っていない。その本源なるものが「中(みなか)」なのであります。現象が現れるということは、すべて或る自己限定をして偏りによって現れてくるのです。それでこの「中(みなか)」というのは「偏らないところの本源」という意味です。それで宇宙の本源で何処にも偏らない、未だ一切の姿に発せざる「中(みなか)」なるところの主なる神様が天之(あめの)御中主(みなかぬしの)神(かみ)であります。」

②真に権威ある真理国家(96ページ)
 人倫(じんりん)の規範(きはん)としての国家、正法(せいほう)の支配する大乗(だいじょう)の国家、天意の継承としての国家、ただ単に武力や権力をもって国家を支配することが権威なのではない。真に権威ある真理国家を形成することが、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)としての天皇の権威なのである。氏族制度は蘇我氏と共に終焉(しゅうえん)せしめられなければならない。単に蘇我氏を倒せばよいのではない。真理国家としての皇国(こうこく)の道統(どうとう)が樹(た)つことが根本なのである。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-23 11:43 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき6)

(33特2)皇太子の堂々たる内政と外交
①飛鳥(あすか)時代の皇太子は、天皇より自由な立場で国政に実権をふるうことができた。特に聖徳太子(しょうとくたいし)は、「摂政」として「大臣」蘇我(そがの)馬子(うまこ)らの協力により「万機(ばんき)を総摂(そうせつ)し、天皇の事を行ひたまふ」たのである。就任早々の推古天皇2年(西暦594年)、「三宝(さんぼう)(仏法僧(ぶつほうそう))興隆」の詔(みことのり)を公式に出されたので、廷臣たちは各々君親の恩のため競って仏舎を造るようになった。

②十年後の推古天皇12年(西暦604年)正月元旦、【冠位(かんい)十二階】が初めて女帝から臣僚(しんりょう)たちに授けられた。従来は、朝廷から主な氏に賜った姓(かばね)が世襲され、その氏姓で身分の上下を示した。しかし今後は、個人の才能・勲功により天皇から冠位を賜ることになったのである。

③同年4月3日、皇太子親ら肇めて【憲法十七条】を作られたのである。

④外交面でも、推古天皇8年(西暦600年)、新羅へ出兵したり隋(ずい)の様子を探ったりした。推古天皇15年(西暦607年)、遣隋使(けんずいし):小野(おのの)妹子(いもこ)を送り「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。・・・・・・」という堂々たる国書を皇帝煬帝(ようだい)に呈している。従来の朝献(ちょうけん)外交を止め、対等外交を開こうとした聖徳太子の見識と勇気には、驚嘆するほかない。推古天皇は、帰国した小野妹子に最上の冠位「大徳」を授けておられる。

④他にも、聖徳太子は、三経(法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう))の義疏(ぎしょ)(中国伝来の諸注釈書を検討整理し自説も補足した編著)を作成、「天皇記・国記」以下の国史を編纂、するなどの偉大な功績を残されている。

⑤推古天皇30年(西暦622年)2月22日、49歳の生涯を閉じられたのである。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-22 11:35 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき5)

(33特1)推古女帝と摂政の聖徳太子
①前述の第29代:欽明(きんめい)天皇は、仏教の受容に配慮され、新興勢力の蘇我氏や渡来帰化人なども活用しながら、屯倉(みやけ)(皇室領)や水陸路(すいりくじ)の整備などにも尽くされた。しかし、その後三人の皇子が第30代:敏達(びたつ)天皇・第31代:用明(ようめい)天皇・第32代:崇峻(すしゅん)天皇として皇位を継承する間に、蘇我氏が強大な権力を握るに至った。特に崇峻(すしゅん)天皇の場合、生母が蘇我(そがの)小姉君(をあねのきみ)であるが、その母后の兄の蘇我馬子(そがのうまこ)は、甥を天皇に擁立しながら、自分の意に従わないことを怒り、腹心に天皇を暗殺させる、という前代未聞の弑逆(しいぎゃく)事件まで引き起こしている。そこで、重臣たちの協議により、次の天皇に擁し立てられたのが、敏達(びたつ)天皇の皇后だった三十九歳の額田部(ぬかたべの)皇女(ひめみこ)(豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ))で、つまり第33代:推古天皇である。
 過去に、神功(じんぐう)皇后が第15代:応神(おうじん)天皇の「摂政」を務められたり、飯豊青皇女が第23代:顕宗(けんそう)天皇が即位するまで「摂位」の立場にあったが、大王(おおきみ)(天皇)として即位されたわけではない。従って、推古天皇は皇室史上初めて誕生した女帝(女性天皇)である。それが実現し得たのは、夫君(敏達(たつ)天皇)の崩御後、「天下を取らん」とした異母弟の穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)を退け、同母兄のび用(よう)明(めい)天皇と異母弟の崇(す)峻(しゅん)天皇を立てる際にも、皇太后として的確な判断と迅速な行動を示した実績が、重臣たちから評価され、信望を集めていたからである。推古天皇が、すぐれた政治的な判断力をもっておられたことは、即位四か月後(西暦593年)、他の皇子らをさしおき、甥の厩戸(うまやどの)皇子(みこ)(聖徳太子)を「皇太子」に立て、「摂政」に任じられたことである。

②ちなみに、その後の女帝は、第35代:皇極(こうぎょく)天皇・第37代:斉明(さいめい)天皇(第35代と同一人)・第41代:持統(じとう)天皇・第43代:元明(げんめい)天皇・第44代:元正(げんしょう)天皇・第46代:幸謙(こうけん)天皇・第48代:称徳(しょうとく)天皇(46代と同一人)で、推古天皇を含めて8代6人である。

③聖徳太子(しょうとくたいし)の立場は、父が女帝と同母兄の用明(ようめい)天皇であり、母が女帝の異母妹の穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)であって、その両親とも蘇我氏の血を引いていたのみならず、まもなく蘇我馬子(そがのうまこ)の娘の刀自古郎女(とじこいらつめ)を妃に迎えている。このように、推古女帝とも蘇我氏とも密接な関係にあり、その双方から全幅の信頼を得ることができた。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-20 10:00 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき4)

⑯推古天皇29年(西暦621年)2月5日、皇太子は斑鳩宮(いかるがのみや)に薨去された。

⑰推古天皇31年(西暦623年)、新羅(しらぎ)が任那(みなま)を討ち、任那は新羅に属した。天皇は新羅を討とうとされたが、群臣の議論が合わず一時中止となった。その後、朝廷と両国との協議が進む途中で、馬子大臣が数万の軍兵を送り出して、新羅を討った。

⑰推古天皇32年(西暦624年)9月、寺および僧尼を調査して、詳細に各寺の縁起、僧尼の入道の事由(ことのよし)、出家の年月日などを記録した。このとき、寺は46ヵ所、僧816人、尼569人、併せて1,385人であった。

⑱推古天皇32年(西暦624年)10月、馬子大臣が二人の使いをだして、天皇に奏上させて「葛城県(かつらぎのあがた)は代々葛城氏が居りますが、蘇我氏は葛城氏の同族でありますから、本来私のものであります。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もあります。どうか永久にその県を賜りたい」と云った。天皇は、「自分は蘇我氏の出(母は蘇我稲目の娘:堅塩媛(きたしひめ))である。馬子大臣はわが叔父である。故に馬子大臣の云うことは、即刻どんなことでも聞き入れて来た。しかし今わが治世に急にこの県を失ったら、後世の帝(みかど)が「愚かな女が天下に公(きみ)として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった」と云われるだろう。ひとり私が不明であったとされるばかりか、大臣も不明とされ、後世に悪名を残すことになるだろう」と申され許されなかった。

⑲推古天皇36年(西暦628年)2月、天皇は病臥された。病が重くなっていくなかで、田村(たむらの)皇子(みこ)(後の舒明(じょめい)天皇)を召されて、「天子の位を嗣ぎ、国の基をととのえ、政務を統べて、人民を養うことはたやすいことではない。私はお前をいつも重くみてきた。それゆえ行動を慎んで、物事を明らかに見るように心がけなさい。何事も軽々しく云ってはなりませぬ」と諭された。また、山背(やましろの)大兄(おおえの)(聖徳太子の御子)を召して、「お前はまだ未熟であるから、もし心中に望むことがあっても、あれこれ云ってはなりませぬ。必ず群臣の言葉を聞いて、それに従いなさい」と教え諭された。
 2月7日、推古天皇が崩御された。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-19 13:37 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古(すいこ)天皇(つづき3)

⑪推古天皇13年(西暦605年)4月、天皇は、皇太子・大臣・諸王。諸臣に詔して共に請願を立て、始めて銅(あかがね)と繡(ぬいもの)との1丈6尺の仏像を、各一軀(ひとはしら)造り始めた。鞍作鳥(くらつくりのとり)を造仏の工(たくみ)に任じた。高麗(こまの)国の大興王(だいこうおう)は、これを聞かれて黄金(こがね)三百両を奉った。14年(西暦606年)4月、銅と繡の丈6の仏像が完成した。銅の仏像は元興寺(がんこうじ)(飛鳥寺)にお祀りし、齊会を行った。

⑫推古天皇14年(西暦607年)5月、天皇は、皇太子を招き勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。また皇太子は、法華経(ほけきょう)を岡本宮(おかもとのみや)で講じられた。天皇はたいへん喜ばれた。しかし神祇を忘れたのではなく、15年(西暦608年)2月には「古来、わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに慎んで厚く神祇を敬まわれ、天神(てんしん)地祇(ちぎ)をお祀りし、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々の御業も順調に行われた。今わが代においても神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心を尽して、よく神祇を拝するようにせよ」と申されている。

⑬推古天皇15年(西暦607年)7月、大礼(だいらい):小野臣(おののおみ)妹子(いもこ)を大唐(もろこし)(隋(ずい)の国)に遣わした。世に云う「遣隋使(けんずいし)」である。翌年4月、小野妹子が帰った。共に大唐の使人:裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)12人が来た。客人たちをもてなし、隋の国の皇帝からの書や進物が届けられた。15年(西暦607年)9月、裴世清らが帰ることになった。小野妹子を大使として再び遣わされた。この時の隋の皇帝にあてた書が、あの有名な「「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。・・・・・・云々」の文書である。
 このとき、勉学のため8人の学徒を遣わした。この年、新羅(しらぎ)の人が多く帰化してきた。

⑭推古天皇18年(西暦610年)3月、高麗(こま)王が僧:曇徴(どんちょう)・法定(ほうじょう)らをたてまつった。

⑮推古天皇28年(西暦620年)12月、皇太子と馬子大臣が相謀って、天皇記および国記(こにつふみ)、臣・連・伴造・国造・その外多くの部民・公民らの本記を記録した。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-17 10:00 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古天皇(つづき2)

⑥推古(すいこ)天皇8年(西暦600年)2月、新羅(しらぎ)と任那(みなま)の間に戦が勃発した。天皇は、任那を助けようと兵を出した。両国に使いを遣わして、両国に和議が成立したかに見えたが、新羅は任那を犯した。9年(西暦601年)3月、高麗(こま)と百済(くだら)に働きかけて、任那を助け新羅を討とうとされた。来目皇子(くめのみこ)(聖徳太子の同母弟)を新羅討伐の将軍に任命された。来目皇子は、筑紫に至って戦の準備に入ったが、病に掛かり役目を果たせなくなった。11年(西暦603年)2月に薨去(こうきょ)された。墓は、河内の埴生(はにゅう)山の崗の上(大阪府羽曳野市埴生野、第22代:清寧(せいねい)天皇と第24代:仁賢(にんけん)天皇の陵(みささぎ)の近く)にある。
 改めて来目皇子の兄:当摩(たぎまの)皇子(みこ)を将軍に任じたが、明石に着いたとき従っていた妻の舎人姫(とねりのひめの)君(きみ)が薨去した。ついに新羅の討伐は中止になった。

⑦推古天皇10年(西暦602年)10月、百済から僧:観勒(かんろく)が来て、暦の本、天文地理の本、遁甲(どんこう)方術(占星術と占い術)の本を献上した。陽胡史(やどのふびと)の祖:玉陳(たまふる)は暦法を、大伴(おおともの)村主(すぐり)高聡(こうそう)は天文・遁甲(どんこう)を、山背臣(やましろのおみ)日立(ひたて)は方術を学んで、業を遂げた。高麗(こま)の僧:僧隆(そうりゅう)・雲聡(うんそう)が来日し帰化した。

⑧推古天皇11年(西暦603年)11月、皇太子は諸大夫(まえつきみたち)に「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏をお祀りする者はいないか」と云われた。秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)が進んで「臣がお祀りしましよう」と申し出た。河勝は仏像を頂いて蜂岡寺(はちおかてら)(現在の広隆寺(こうりゅうじ))を造った。

⑨冠位(かんい)十二階(じゅうにかい)を、推古天皇11年(西暦603年)12月に施行、12年(西暦604年)1月1日に冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいれい)、小礼(しょうれい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)の十二階である。更に冠の色を、錦(にしき)・青・赤・黄・白・黒に分けて位階(いかい)を示すことになった。

⑩推古天皇12年(西暦604年)4月3日、皇太子は初めて自から作られた十七条憲法を発表された。9月に朝廷の礼法を改められた。

『和を以て貴しと為し、伴う無きを宗と為よ』から始まる、十七条憲法について詳細を知りたい方は、インターネットで検索してお読みください。
また、条文は後の30~33ページにも掲載してあります。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-16 11:35 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古天皇(つづき)

c.主な出来事
①39歳のとき、崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)11月3日に崇峻天皇が崩御された。そこで敏達(びたつ)天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)に皇位を継いで頂くよう、群臣たち揃ってお願いするが辞退され、三度目にようやく受け入れられた。

②推古(すいこ)天皇元年(西暦593年)4月、厩戸豊聰耳(うまやどのとよとみみの)皇子(みこ)を立てて皇太子とされ、国政をすべて任せられた。太子は、用明(ようめい)天皇の第二皇子であり、母は皇后の穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)(欽明(きんめい)天皇の皇女)である。皇后は馬司(うまのつかさ)の所においでになったとき、厩の戸に当られた拍子に難なく出産された。太子は、生まれて程なくものを云われたといい、聖人のような智恵をお持ちであった。成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても間違うことなく、先の事までよく見通された。仏法を高麗(こま)の僧:慧慈(えじ)に習われ、儒教(じゅきょう)の経典を覚哿(かくか)博士(はかせ)に学ばれた。そして、これらを悉(ことごと)く極められた。用明天皇が可愛がられて宮殿の南の上宮(かみつみや)に住まわされた。それでその名を称えて上宮(かみつみやの)厩戸豊聰耳(うまやどのとよとみみの)太子(ひつぎのみこ)と云う。

③推古(すいこ)天皇2年(西暦594年)2月、天皇は、皇太子と蘇我(そがの)馬子(うまこ)大臣に詔して、仏教の興隆を図られた。このとき多くの臣(おみ)・連(むらじ)たちが、君や親の恩に報いるため、競って仏舎(寺)を造った。

④推古(すいこ)天皇3年(西暦595年)5月、高麗(こま)の僧:慧慈(えじ)が帰化した。皇太子はそれを師とした。百済の僧:慧聡(えそう)が来た。この二人が仏教を広め、三宝の棟梁(とうりょう)となった。4年(西暦596年)11月、法(ほう)興寺(こうじ)が落成した。馬子(うまこ)大臣(おおおみ)の長子:善徳(ぜんとくの)臣(おみ)を寺の司(つかさ)に任命した。この日から、法興寺(ほうこうじ)に慧慈(えじ)と慧聡(えそう)の二人が住んだ。

⑤推古(すいこ)天皇5年(西暦597年)4月、百済(くだら)が調(みつぎ)を奉った。6年(西暦598年)4月、新羅(しらぎ)から鵲(かささぎ)2羽が献上された。6年(西暦598年)8月、新羅(しらぎ)が孔雀(くじゃく)1羽を献上した。6年(西暦598年)10月、越(こし)の国(北陸)から白(しろき)鹿(しか)1頭が献上。7年(西暦599年)4月、大地震が発生、多数の建物が崩壊。
 7年(西暦599年)0月、百済(くだら)から駱駝(らくだ)1匹、ロバ1匹、未2匹、白(しろき)雉(きじ)1羽、が献上された。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-13 09:58 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古(すいこ)天皇
   (豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇(すめらみこと))
   (欽明(きんめい)天皇の第二皇女、用明(ようめい)天皇の同母妹、
    18歳で敏達(びたつ)天皇の皇后、
    敏達天皇14年(西暦585年)8月15日に敏達天皇が崩御。)

a.御陵
 陵名=磯長(しながの)山田(やまだの)陵(みささぎ)
 墳名=山田高塚古墳
 陵の形=方丘
 所在地=大阪府南河内郡太子町大字山田
 交通=近鉄南大阪線「貴志駅」下車、バス「御陵前」下車、南ヘ200m

b.履歴
 御名・異称=豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)尊(みこと)・額田部
 父=欽明(きんめい)天皇
 母=蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)
 配偶者=敏達(びたつ)天皇
 皇子女=第30代:敏達天皇の項に記した。
 誕生=欽明(きんめい)天皇15年(西暦554年)
 即位=崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)12月8日
 崩御=推古(すいこ)天皇36年(西暦628年)3月7日
 在位年数=37年
 年齢=75歳
 年号=―――
 皇居=豊浦宮(とゆらのみや)(奈良県高市郡明日香村)
      小墾田宮(おはりたのみや)(奈良県高市郡明日香村)

備考:
 推古(すいこ)天皇は、初代の女帝であり、摂政(せっしょう)であった聖徳太子(しょうとくたいし)(皇太子)と伴に、仏教を広め、官位(かんい)十二階を制定し、十七条憲法(けんぽう)を制定し、国史を撰し、遣隋使(けんずいし)を派遣し、近代国家への基(いしずえ)を築かれた。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-10 10:09 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(32)第32代:崇峻(すしゅん)天皇(つづき)

c.主な出来事
①用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)4月、用明天皇が崩御されたとき、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)は、初めは穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)を天皇にしようと考えていたが、この時は心変わりしていた。

②用明天皇2年(西暦587年)6月、炊屋姫(かしきやひめの)を奉じた蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)は、軍兵を出して穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)の宮を囲み殺した。宅部(やかべの)皇子(みこ)(宣化(せんか)天皇の皇子)も心通じているとして殺した。

③用明天皇2年(西暦587年)7月、蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)大臣は、諸皇子と群臣を集めて、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)を滅ぼそうと謀った。蘇我の軍勢は、守屋の館を囲み攻めたてたが、物部の軍勢も強く蘇我の軍勢は三度も退却した。
 蘇我の軍勢の後に従っていた厩戸(うまやどの)皇子(みこ)は、急いで四天皇(してんのう)の像を作り束髪(そくはつ)の上に乗せ、「もし自分を勝たせて下さったら、必ず護世四王(ごぜしおう)の寺院を建てましょう」と誓いを立てて云われた。蘇我馬子宿禰も「寺院を建て三宝を広めます」と誓われた。そして武備を整え進撃し、物部の軍勢を撃ち破り物部守屋大連を殺した。乱が収まってから、摂津国(せっつのくに)に四天王寺(してんのうじ)をに造り、蘇我大臣は請願の通り、飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺(あすかでら))を建てた。

④崇峻(すしゅん)天皇元年(西暦587年)3月、百済(くだら)が使いをに遣わして、仏舎利(ぶっしゃり)を献上した。また百済国は、使いをに遣わして調(みつぎ)を献上し、同時に仏舎利(ぶっしゃり)と僧:聆照(りょうしょう)、律師(りつし)・令威(りょうい)・恵衆(えしゅう)・恵宿(えしゅく)・道巌(どうごん)・両開(りょうけ)らと、寺院建築工:太良(たら)未太(みだ)・文賈(もんけ)古子(こし)・鑢盤(ろばんの)博士(はかせ)の将徳白昧(しょうとくはくまい)淳(じゅん)・瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)・楊貴文(ようくいもん)・掕貴文(りょうくいもん)・昔麻帯弥(しゃくまたいみ)・画工(えたくみ)白加(びゃくか)を奉った。蘇我馬子宿禰は、百済の僧たちに受戒(じゅかい)の法を請い、以前から仏法に帰依し法会(ほうえ)に当っていた善信尼(ぜんしんに)らを、百済の使い恩卒首信(おんそつすしん)らにつけて、学問をさせるために出発させた。そして飛鳥に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺(あすかでら))を造った。

⑤崇峻(すしゅん)天皇3年(西暦590年)3月、善信尼(っぜんしんに)らが百済から帰り桜井寺に住んだ。この年、出家した尼は、貴人だけで12人を超えた。

⑥崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)10月、猪(いのしし)を奉る者があった。天皇は猪を見て「いつの日かこの猪の首を斬るように、自分が難いと思っている人を斬りたいものだ」と云われた。蘇我馬子宿禰は、この言葉を聞いて、また朝廷で武器を集めることが、いつもと違っているように思えて、天皇が自分を嫌っていると思ってしまい、天皇を弑(しい)することを謀(はか)った。部下を使って5年(西暦592年)11月3日に天皇を弑したてまつった。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-09 17:34 | 旅行記