井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(29)第29代:欽明(めい)天皇(つづき)

②仏教を慎重に受容した欽明(きんめい)天皇
 仏教が百済(くだら)から日本へ公式に伝来したのは、欽明(きんめい)天皇7年(西暦538年)である。百済の聖明(せいめい)王(在位:西暦523~554年)が仏像と経典を献り、「この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)(儒教の始祖)も知ることができませんでした。・・・・帝(みかど)(日本)に伝え奉ります。国内に流通させてください」と推奨してきた。
 それに対して、欽明天皇は、妙なる仏教の到来を喜びながら、重臣たちに「百済の献れる仏のお顔は端麗の美を備えておられ、全く未曾有のものである。これを祀るべきかどうであろう」と意見を求められた。
 すると、新興勢力の蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)は直ちに賛意を表した。しかし、古参の物部(もののべの)大連(おおむらじ)尾輿(おこし)・中臣連(なかとみのむらじ)鎌子(かまこ)は、従来「わが国家(みかど)の天下に王(おおきみ)とましますのは、恒に天地社稷(しゃしょく)の百八十神(ももやそかみ)を以て春夏秋冬に祭拝(まつり)したまうからであり、今後、改めて蕃神(となりかみ)(仏)を拝みたまえば、恐らく国神(くにつかみ)の怒りをうけることになるでしょう」と反対を唱えています。
 そこで天皇は、即決を避けられ、とりあえず仏像などを蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)に
対して「試みに礼拝するよう」に指示された。古来の神衹(じんき)祭祀(さいし)を主催して来られた天皇は、外来の仏教に感心しても、その受容には慎重を期されたのである。すると、しばらくして国内に疫病が流行し、多くの人々が病死した。そのため、物部(もののべの)尾輿(おこし)らの反対派の奏請により、「仏像を難波の堀江に流し捨て、また火を伽藍(寺)に火を付け焼き尽くす」に至った。一方、蘇我氏のほうでも仏教だけを信仰したわけではなく、例えば、西暦555年、百済の聖明王が新羅(しらぎ)と戦って遂に殺されたことを知らせてきた王子恵(けい)に対し、「初め国を建てられた神、即ち天より降り来まして国家(日本)を造り立てられた神である。汝が国(百済)は、これを啜(す)てて祀らずにいたので今日のようになったのである。まさに今、前の過ちを悛(あらた)め悔いて、神の宮を修い理(おさ)め、神の霊を請い招いてお祈りしたならば、国は栄えるだろう」と、むしろ神祭を励行するように諭しておられる。
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by ikawazukbr | 2012-06-30 17:29 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(29)第29代:欽明(きんめい)天皇
         (天国排開(あめくにはいはるき)広庭(ひろにわの)天皇(すめらみこと))
         (安閑(あんかん)天皇・宣化(せんか)天皇の異母弟)
a.御陵
 陵名=檜隈坂合(ひきくまのさかあいの)陵(みささぎ)
 墳名=平田梅山古墳
 陵の形=前方後円(全長138m)・堀
 所在地=奈良県高市郡明日香村大字平田
 交通=近鉄吉野線「飛鳥駅」下車、北東へ600m

欽明天皇の陵の近くにある御陵
 第40代:天武(てんむ) 天皇(天渟中原瀛(あまのぬなはらおきの)真人(まひとの)
  天皇(すめらみこと))=檜隈(ひのくまの)大内(おおうちの)陵(みささぎ)
 第41代:持統(じとう) 天皇(高天原(たかまのはら)広野姫(ひろのひめの)天皇)=
  檜隈(ひのくまの)大内(おおうちの)陵(みささぎ)
 第42代:文武(もんむ)天皇(倭根子(やまとねこ)豊祖父(とよおじの)天皇)=
  檜隈(ひのくまの)安古岡上(あこのおかのへの)陵(みささぎ)
 他に、高松塚(たかまつづか)古墳、見瀬丸山(みせまるやま)古墳があります。

b.履歴
 御名・異称=天国排開(あめくにはいはるき)広庭(ひろにわの)尊(みこと)
 父=継体(けいたい)天皇
 母=手白髪(てしらかの)皇女(ひめみこ)
 皇后=石姫(いしひめの)皇女(こうひめみこ)(宣化(せんか)天皇の皇女)
 妃=①稚綾姫(わかあやひめの)皇女(ひめみこ)(皇后の妹)、
    ②日影皇女(皇后の妹)、
    ③堅塩媛(きたしひめ)(蘇我大臣(おおおみ)稲目宿禰の娘)、
    ④小姉(おあねの)君(きみ)(堅塩媛(きたしひめ)の同母妹)、⑤糠子(あらこ)
 皇子女=皇后→葥田(やたの)珠勝(たまかつ)大兄(おおえの)皇子(みこ)、
            訳語田(おさたの)渟中倉(ぬなくらの)太珠敷(ふとたましきの)尊=
            (後の敏達(びたつ)天皇)、笠縫(かさぬいの)皇女(ひめみこ)
       妃①→石上(いそのかみの)皇子(みこ)、②→倉(くらの)皇子(みこ)、
        ③→大兄(おおえの)皇子(みこ)(後の用明(ようめい)天皇)、
           磐隈(いわくまの)皇女(ひめみこ)(伊勢の斎王)、
           臘嘴鳥(あとりの)皇子(みこ)、
           豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)尊(みこと)(後の推古天皇)、
           椀子(まろこの)皇子(みこ)、大宅(おおやけの)皇女(ひめみこ)、
           石上部(いそのかみべの)皇子(みこ)、
           山背(やましろの)皇子(みこ)、大伴(おおともの)皇女(ひめみこ)、
           桜井(さくらいの)皇子(みこ)、肩野(かたのの)皇女(ひめみこ)、
           橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子(みこ)、舎人(とねりの)皇女
       、④→茨城(うまらきの)皇子(みこ)、葛城(かずらきの)皇子(みこ)、
           泥部(はしひとの)穴穂部(あなほぶの)皇女(ひめみこ)(用明(ようめい)
            天皇の皇后で、聖徳太子(しょうとくたいし)の母)、
           泥部(はしひとの)穴穂部(あなほぶの)皇子(みこ)、
           泊瀬部(はつせべの)皇子(みこ)(後の崇竣(すしゅん)天皇)、
        ⑤→春日(かすがの)山田(やまだの)皇女(ひめみこ)、
           橘(たちばな)麻呂(まろの)皇子(みこ)
 誕生=継体(けいたい)天皇3年(西暦509年)
 立太子=―――
 即位=宣化(せんか)天皇4年(西暦539年)12月5日
 崩御=欽明(きんめい)天皇32年(西暦571年)4月15日
 在位年数=33年
 年齢=63歳
 年号=ーーー
 居=磯城島(しきしまの)金刺宮(かなさしのみや)(奈良県桜井市金屋)

c.主な出来事
①欽明(金めい)天皇元年(西暦539年)2月、百済(くだら)の人:己知部(こちふ)が帰化してきた。
 元年(西暦539年)8月、高麗(こま)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)が使いを遣わして貢物を奉った。秦人(はたひと)・漢人(あやひと)ら近くの国から帰化してくる人も多かった。天皇は、色々の紛争のもとになっている新羅を討とうとされたが、非常に困難な状況であることから断念された。任那・百済は新羅の策謀にあって、苦境に立たされていた。任那は滅亡に追い込まれており、天皇は任那の復興を再三、命じておられた。長い年月を要しても進展しませんでした。
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by ikawazukbr | 2012-06-29 11:59 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(28)第28代:宣化(せんか)天皇
    (武小広国押楯(たけおひろくにおしたての)天皇(すめらみこと))
    (安閑(あんかん)天皇も同母弟)
a.御陵
 陵名=身狭(むさの)桃花鳥坂上(つきさかのへの)陵(みささぎ)
 墳名=鳥屋ミサンザイ古墳
 陵の形=前方後円(全長138m)・堀
 所在地=奈良県橿原市鳥屋町
 交通=近鉄橿原線「橿原神宮前駅」下車、バス「船付山口」下車すぐ

b.履歴
 御名・異称=武小広国押楯(たけおひろくにおしたての)尊(みこと)
          檜隈高田(ひのくまたかだ)
 父=継体(けいたい)天皇
 母=尾張(おわりの)目子媛(めこひめの)命(みこと)
 皇后=橘之(たちばなの)仲姫(なかつひめの)皇女(ひめみこ)
 妃=大河内稚子(おおしこうちわくご)媛(ひめ)
 皇子女=皇后→石姫(いしひめの)皇女(ひめみこ)、小石姫(こいしひめの)皇女
            倉稚綾姫(くらのわかやひめの)皇女(ひめみこ)、
            上殖葉(かみつうえはの)皇子(みこ)、        
       妃→火焔(ほのおの)皇子(みこ)
 誕生=雄略(ゆうりゃく)天皇11年(西暦467年)
 立太子=――――
 即位=安閑(あんかん)天皇2年(西暦535年)12月
 崩御=宣化(せんか)天皇4年(西暦539年)2月10日
 在位年数=5年
 年齢=73歳
 年号=―――
 皇居=檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)(奈良県高市郡明日香村)

c.主な出来事
 各地の屯倉(みやけ)から樅種(もみたね)を集め、非常の年の備えとする倉を都に設けた、
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by ikawazukbr | 2012-06-27 10:13 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(27)第27代:安閑(あんかん)天皇
   (広国押建(ひろくにおしたけ)金日(かなひの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=古市(ふるいち)高屋(たかやの)丘陵(おかのみささぎ)
 墳名=高屋築山古墳
 陵の形=前方後円(全長121m)・堀
 所在地=大阪府羽曳野市古市五丁目
 交通=近鉄南大阪線「古市駅」下車、南へ600m

b.履歴
 御名・異称=広国押建(ひろくにおしたけ)金日(かなひの)尊(みこと)
         勾(まがりの)大兄(おおえの)尊(みこと)
 父=継体(けいたい)天皇
 母=尾張(おわりの)目子媛(めのこひめの)命(みこと)
 皇后=春日山田(かすがのやまだの)皇女(ひめみこ)
 妃=①紗手媛(さてひめ)、②香香有媛(かかりひめ)(紗手媛の妹)、
    ③宅媛(やかひめ)
 皇子女=なし
 誕生=雄略(ゆうりゃく)天皇10年(西暦466年)
 立太子=継体(けいたい)天皇7年(西暦513年)12月8日【日本書記】
 即位=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日
 崩御=安閑(あんかん)天皇2年(西暦535年)12月17日
 在位年数=5年
 年齢=70歳
 年号=―――
 皇居=勾(まがりの)金橋宮(かなはしのみや)(奈良県橿原市曲川町)

c.主な出来事
 各地に屯倉(みやけ)が多く置かれた。関東への勢力が強くなって行った時代である。
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by ikawazukbr | 2012-06-25 10:01 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(26)第26代:継体(けいたい)天皇
    (男大迹(おおどの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=三嶋(みしまの)藍野(あいの)陵(みささぎ)
 墳名=太田茶臼山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=大阪府茨木市太田三丁目
 交通=JR東海道本線・JR京都線「摂津富田駅」げしゃ、西ヘ600m
      阪急電車「茨木氏駅」下車、近鉄バス「太田」下車、東へ300m

b.履歴
 御名・異称=男大迹(おおどの)尊(みこと)・彦太(びこふとの)尊(みこと)
          (応神天皇の五世孫)
 父=彦主人(ひこうしの)王(おおきみ)(応神天皇の四世孫)
 母=三国振媛(みくにのふりひめの)命(みこと)(垂仁天皇の七世孫)
 皇后=手白髪(たしらかの)皇女(ひめみこ)
 妃=①尾張(おわりの)目子媛(めのこひめ)、②稚子媛(わかこひめ)、③広媛(ひろひめ)、
    ④麻績娘子(おみのいらつめ)、⑤茨田関媛(まむたのたせきひめ)、
    ⑥倭媛(やまとひめ)、⑦荑媛(はえひめ)、⑧広媛(ひろひめ)
 皇子女=皇后→天国(あめくに)拝開(おしはらき)広庭(ひろにわの)尊(みこと)
            (後の欽明(きんめい)天皇)
       ①→広国押(ひろくにおし)武金日(ぶかかなひの)尊(後の安閑天皇)、
          武小(たけお)広国押楯(ひろくにおしたての)尊、(後の宣化天皇)、
       ②→大郎(おおいらつこの)皇子(みこ)、出雲(いずもの)皇女(ひめみこ)
       ③→神前(かむさきの)皇女(ひめみこ)、茨田(まむたの)皇女(ひめみこ)、
          馬来田(うまくたの)皇女(ひめみこ)、
       ④→荳角(きさげの)皇女(ひめみこ)(斎王)
       ⑤→茨田(まむたの)大郎(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、
          白坂(しらさか)活日姫(いくひひめの)皇女(ひめみこ)、
          小野稚娘(おののわかいらつめの)皇女(ひめみこ)
       ⑥→大郎子(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、椀子(まろこの)皇子(みこ)、
          耳(みみの)皇子(みこ)、赤姫(あかひめの)皇女(ひめみこ)
       ⑦→稚綾姫(わかやひめの)皇女(ひめみこ)、円娘(つぶらいらつめの)皇女、
          厚(あつの)皇子(みこ)
       ⑧→莵(うさぎの)皇子(みこ)、中皇子(なかつみこ)
 誕生=允恭(いんきょう)天皇39年(西暦450年)
 立太子=――――
 即位=継体(けいたい)天皇元年(西暦507年)2月4日
 崩御=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日
 在位年数=25年
 年齢=82歳
 年号=―――
 皇居=樟葉宮(くずばのみや)(大阪府枚方市楠葉)
      筒城宮(つつきのみや)(京都府綴喜群田辺町多々羅)
      弟国宮(おとくにのみや)(京都府京都市右京区大原町)
      磐余(いわれの)玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市池之内)

c.主な出来事
①皇統の断絶を救った第26代:継体(けいたい)天皇
 第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇は、西暦479年に崩御された。後を継がれたのは、白髪皇子と称された第22代:清寧(せいねい)天皇であるが、病弱のため御子がおられなかった。そこで、皇統のつながる血縁者を各地に探し求めたところ、清寧(せいねい)天皇の再従兄弟(またいとこ)にあたる二人の皇子が、播磨(兵庫県)に隠れ住んでいた。雄略(ゆうりゃく)天皇に殺された市辺押磐(いちべのおしいわの)皇子(みこ)の遺児である億計(おけの)王(みこ)と弘計(をけの)王(みこ)である。
 先に弟の弘計(をけの)王(みこ)が即位され、第23代:顕宗(けんそう)天皇となられるが在位わずか2年半で崩御された。そこで、兄の億計(おけの)王(みこ)が即位され、第24代:仁賢(にんけん)天皇となられる。その長男の小泊瀬(をはつせの)皇子(みこ)が即位され、第25代:武烈(ぶれつ)天皇となられ、8年在位されたが皇子(みこ)がなかった。
 この武烈(ぶれつ)天皇が西暦506年に崩御されたとき、皇位継承者が無く、皇位が断絶する危機に立ち至った。近従の臣達が相談して、越前の三国(みくに)におられた第15代:応神(おうじん)天皇の五世孫であるお男大迹(おおどの)尊(みこと)を探しだした。その王は諸臣の要請を入れ,まもなく践祚なされ、第26代:継体(けいたい)天皇となられた。

②継体(けいたい)天皇6元年(西暦513年)12月、百済(くだら)が、任那(みなま)の上哆唎(おこしたり)、、下哆唎(あめしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しいと願い出た。天皇はこれを与えた。
 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)6月、百済(くだら)が、五経博士:段楊爾(だんように)を奉った。別に「伴跛(はへ)の国が、百済(くだら)の己汶(こもん)の領土を奪いました。天皇によって元通りになるよう、お取り計らいいただきますようお願い致します」と上奏(じょうそう)した。
 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)11月、百済(くだら)の将軍が、新羅(しらぎ)・安羅(あら)・伴跛(はへ)の将軍を召しつれて来朝し、天皇から己汶(こもん)・滯沙(たさ)を百済(くだら)の国に賜った。
 この頃、百済(くだら)の国の近隣は、伴跛(はへ)の国、新羅(しらぎ)の国、任那(みまな)の国(日本府)等入り乱れての争乱が続いた時代であった。
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by ikawazukbr | 2012-06-22 16:32 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(25)第25代:武烈(ぶれつ)天皇
    (小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷧(わかさざきの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=傍丘(かたおかの)磐坯(いわつきの)丘北(おかのきたの)陵(みささぎ)
 墳名=
 陵の形=山形・前面堀
 所在地=奈良県香芝市今泉
 交通=JR和歌山線「志都美駅」下車、西へ300m

b.履歴
 御名・異称=小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷧(わかさざきの)尊(みこと)
 父=第24代:仁賢(人けん)天皇
 母=春日(かすがの)大娘(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)
 皇后=春日(かすがの)娘子(いらつめに)命(みこと)
 皇子女=なし
 誕生=仁賢(じんけん)天皇2年(西暦489年)
 立太子=仁賢(じんけん)天皇7年(西暦494年)正月3日
 即位=仁賢(じんけん)天皇11年(西暦498年)12月
 崩御=武烈(ぶれつ)天皇8年(西暦506年)12月8日
 在位年数=9年
 年齢=18歳
 年号=―――
 皇居=泊瀬(はつせの)列城宮(なみきのみや)(奈良県桜井市出雲)

c.主な出来事
①法に詳しく、裁判を好み、罪を明らかにして厳罰に処した。

②暴虐な行為、淫らな行為などが、多く書かれている。

③百済との関係は、疎遠になりつつあった。
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by ikawazukbr | 2012-06-19 18:01 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(24)第24代:仁賢(じんけん)天皇(億計(おけの)天皇(さめらみこと))
a.御陵
 陵名=埴生(はにゅうの)坂本(さかもとの)陵(みささぎ)
 墳名=野中ボケ山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=大阪府藤井寺市青山三丁目
 交通=近鉄南大阪線「藤井寺駅」下車、バス「野の上」下車、東南ヘ400m

b.履歴
 御名・異称=億計(おけの)尊(みこと)(大脚嶋郎(おおししまのいらつこ))
 父=市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)(履中(りちゅう)天皇の御子)
 母=母=荑媛(はえひめの)命(みこと)
 皇后=春日(かすがの)大娘(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)
      (雄略天皇と童女君の間に生まれた) 
 妃=糠(あら)君娘(きみのいらつめ)
 皇子女=高橋(たかはしの)大娘(おおいらつめの)皇女(ひめみこ)、
       朝嬬(あさづまの)皇女(ひめみこ)、手白香(たしらかの)皇女(ひめみこ)、
       樟氷(くすひの)皇女(ひめみこ)、
       橘(たちばなの)皇女(ひめみこ)、小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷯(わかさざきの)尊
       (後の武烈(ぶれつ)天皇)、真稚(まわかの)皇女(ひめみこ)
 誕生=允恭(いんきょう)天皇38年(西暦449年)
 立太子=清寧(せいねい)天皇3年(西暦482年)4月7日
 即位=仁賢(じんけん)天皇元年(西暦488年)正月5日
 崩御=仁賢(じんけん)天皇11年(西暦498年)8月8日
 在位年数=11年齢=50歳
 年号=―――
 皇居=石上(いそのかみの)広高宮(ひろたかのみや)(奈良県天理市)

c.主な出来事
①仁賢(じんけん)天皇6年(西暦496年)9月、日鷹吉士(ひたかのきし)を高麗(こま)に遣(つか)わして、巧手者(てひと)を召された。

②この頃、国中に何事もなく、役人はみなその役にふさわしく、天下は仁(じん)に帰し、民はその業に安んじて、五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)で戸口は益々繁栄している情勢であった。
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by ikawazukbr | 2012-06-18 13:51 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(23)第23代:顕宗(けんぞう)天皇(引計(をけの)天皇(すめらみこと))

a.御陵
  陵名=傍丘(かたおかの)磐坯丘南(いわつきのおかのみなみの)陵(みささぎ)
 墳名=
 陵の形=前方後円
 所在地=奈良県香芝市北今市
 交通=近鉄大阪線「下田駅」下車、北へ500m

顕宗(けんぞう)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第25代:武烈(ぶれつ) 天皇(てんのう)(小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷯(わかさざきの)
 天皇(すめらみこと))=傍丘磐坏(かたおかのいわつきの)丘北(おかのきたの)北陵

b.履歴
 御名・異称=来目稚子(くめのわくご)・引計(をけの)尊(みこと)(履中(りちゅう)天皇の孫)
 父=市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)(履中(りちゅう)天皇の御子)
 母=荑媛(はえひめの)命(みこと)
 備考:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)と荑媛(はえひめの)の御子は、
     ①入夏媛(いなつひめ)、②億計王(くけのみこ)(別名:嶋稚子(しまのわくご)・
     大石(おおいしの)尊(みこと))、③弘計王(をけのみこ)(別名:来目稚子
     (くめのわくご))、④飯豊青(いいとよのあおの)女王(ひめみこ)(別名:忍海部
     (おしぬべの)女王)、⑤橘王(たちばなのみこ)の5人である。
 皇后=難波(なにわの)小野王(おののおおきみ)(允恭(いんきょう)天皇の曽孫、
      磐城王(いわきのみこ)の孫、丘稚子王(おかのわくこのみこ)の娘)
 皇子女=なし
 誕生=允(いん)恭(きょう)天皇39年(西暦450年)
 立太子=――――
 即位=顕宗(けんぞう)天皇元年(西暦485年)正月1日
 崩御=顕宗(けんぞう)天皇3年(西暦487年)4月25日
 在位年数=3年
 年齢=38歳
 年号=―――
 皇居=近飛鳥(ちかつあすかの)八釣宮(やつりのみや)(奈良県高市郡明日香村八釣)

c.主な出来事
①安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)10月、父:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)は雄略(ゆうりゃく)天皇に殺されている。このため億計王(くけのみこ)、・弘計王(をけのみこ)らは逃げ隠れていた。播磨(はりまの)国の明石群でたまたま夜通しの酒宴になった折に身分を明かすことになった。

②皇太子であった億計王は、皇位を弘計王に譲ろうとされ、なかなか位につかれなかった。このため姉の飯豊青女王が、忍海角(おしぬみの)角刺宮(つのさしのみや)で朝政をなされた。

③ようやく顕宗(けんぞう)天皇元年(西暦485年)正月1日に即位。父:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)は難にあわれ、遺骸を埋めた場所も解らなかった。老婆:置目(おきめ)が「知っていると」と申し出たので、置目に案内されて行き掘り返してみると、お骨があったが、お傍にいた舎人(とねり)の骨と入り混じっており、見分けられなかった。そこで二っの陵を同じように造り、葬儀も同じようにされた。

④顕宗天皇2年(西暦486年)3月、顕宗天皇は、億計(おけ)皇太子に向い「雄略天皇への復讐のお想いが消えない。雄略天皇の墓を壊して仕返しをしたい」と申された。億計皇太子は、「雄略天皇は万機を統べて天下に照覧された。人みな喜び仰いだのである。わが父は天皇の子であるが天位に昇らなかった。そこに尊卑が異なって顕われている。私たちは清寧(せいねい)天皇(雄略天皇の御子)厚い寵愛と御恩を受けたので今日があるのではないか。雄略天皇が国を治められた徳行は天下に聞こえている。陵を壊しては、国に臨み人民を子とすることは出来ないだろう」と申された。顕宗天皇は「良いことを言ってくれた」と申され止められた。
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by ikawazukbr | 2012-06-15 18:08 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(22) 第22代:清寧(せいねい)天皇
    (白髪(しらがの)武広国押(たけひろくにおし
      )稚本根子(わかやまとねこの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=河内(かわちの)坂門原(さかどのはらの)陵(みささぎ)
 墳名=西浦白髪山古墳
 陵の形=前方後円(全長130m)・堀
 在地=大阪府羽曳野市西浦六丁目
 交通=近鉄南大阪線「古市駅」下車、西南ヘ1200m(日本武尊白鳥陵の西)

b.履歴
 御名・異称=白髪(しらがの)武広国押(たけひろくにおし)
          稚日本根子(わかやまとねこの)尊(みこと)
 父=第21代:雄略天皇
 母=葛城韓媛(かつらぎのからひめの)命(みこと)
 皇妃=なし
 皇子女=なし
 誕生=允恭(いんきょう)天皇33年(西暦444年)
 立太子=雄略(ゆうりゃく)天皇22年(西暦478年)正月1日
 即位=清寧(せいねい)天皇元年(西暦480年)正月15日
 崩御=清寧(せいねい)天皇5年(西暦484年)正月16日
 在位年数=5年
 年齢=41歳
 年号=―――
 皇居=磐余(いわれの)甕栗宮(みかくりのみや)(奈良県桜井市池之内)

c.主な出来事
①清寧(せいねい)天皇が即位されたが、皇子が無かったので後継者を懸命に探しておられた。播磨(はりまの)国に第17代:履中(りちゅう)天皇の御子:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)の御子である、億計(おけの)尊(みこと)(後の仁賢(にんけん)天皇)と弘計(をけの)尊(みこと)(後の顕宗(けんぞう)天皇)が居られることが判明した。君として、大いに謹んで養い、億計王を皇太子に、弘計王を皇子とされた。
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by ikawazukbr | 2012-06-14 13:32 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(21つづき)第21代:雄略天皇(つづき)

 中国南朝の『宋書』東夷伝(とういでん):倭国条(わこくじょう)に(宋は西暦420~479年)「讃(さん)・珍(ちん)・済(さい)・興(こう)・武(ぶ)」の五人が「倭王(わおう)」として記されている。
 この五人は、田中卓博士によって『古事記』・『日本書紀』と照合され、次のように比定されている。
 「讃(さん)王」とは、第16代:仁徳(にんとく)天皇(西暦313~399年)で、大阪平野の開発に努められ、西暦412年、中国南朝の宋(そう)の武帝(ぶてい)に使節を送っておられる。
 「珍(ちん)王」とは、第18代:反正(はんせい)天皇(西暦406~410年)で、河内の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)(松原市)に王宮を遷し、西暦438年、倭の「珍(ちん)王」として宋(そう)の文帝(ぶんてい)に使節を遣わしておられる。
備考:
 「讃(さん)王」(第16代:仁徳(にんとく)天皇(西暦313~399年))と「珍(ちん)王」(第18代:反正(はんせ  い)天皇(西暦406~410年))の間には、第17代:履中(りちゅう)天皇(西暦400~405年)がおられる  が、履中(りちゅう)天皇の御在位6年、反正(はんせい)天皇の御在位5年といずれも短い。

 「済(さい)王」とは、第19代:允恭(いんきょう)天皇(西暦412~453年)で、大和の遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)に王宮を遷し、西暦451年、宋(そう)から済(さい)王として「使持節都督倭、新羅(しらぎ)・任那(にんな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓(ぼから)、六国諸軍事、安東大将軍」の称号を授けられている。
 「興(こう)王」とは、第20代:安康(あんこう)天皇(西暦453~456年)で、西暦462年、宋(そう)の孝武帝(こうぶてい)からは「安東将軍」の称号しか認められていない。
 「武(ぶ)王」とは、第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇(西暦456~479年)で、泊瀬(はつせ)(桜井市長谷)の朝倉宮(あさくらのみや)に王宮を遷して、内政も外交も積極的に進められた。御名を「若建(わかたける)」・「稚武(わかたける)」と称する。埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄刀(てつとう)に、金で象崁(しょうかん)された115文字の和風漢文体の銘文が刻まれており、その中に「猨加多支鹵(わかたける)大王(おほきみ)」とあり、これが雄略天皇のお名前と一致することが、田中卓博士によって証明されている。
備考:
 この鉄刀は、昭和43年8月に稲荷山古墳から出土し、そのまま展示されていた。錆が進んで来たので永久保存の処理をするため、奈良県の元興寺の文化財研究所に昭和53年5月に送られて来た。
 女子研究員:大崎敏子氏が金泥粒(きんでいりゅう)に気付いたのが7月末であり、工業用レントゲン装置でエックス線を当てたところ銘文を発見、9月11日に115文字を確認した。
 昭和53年9月19日の毎日新聞:夕刊で大スクープとなった。
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by ikawazukbr | 2012-06-13 09:51 | 旅行記