井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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<   2012年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧
みささぎ参拝の薦め
(16)第16代:仁徳天皇(つづき)
④池堤の構築
 仁徳天皇十一年(西暦324年)4月17日、仁徳天皇は群臣に詔して「今この国を眺めると、土地は広いが田圃(たんぼ)は少ない。また河の水は氾濫し、長雨がふると潮流は陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に流すようにし、逆流を防いで田や家を犯さないようにせよ。」と申された。多くの池を造り、水路を造り、堤防を造り、橋を掛け、田を新たに造ったので、人民は安全に豊かになった。
⑤皇后の嫉妬
 仁徳天皇二十二年(西暦335年)1月、天皇は皇后(磐之姫(いわのひめの))に「八田(やたの)皇女(ひめみこ)を召して妃にしたい」と申された。皇后は断固として承知されなかった。皇后が不在の折りに、八田皇女を大宮の中に入れたので、もめ事に発展したと書かれている。三十五年(西暦348年)6月、皇后(磐之姫)が亡くなられたので、八田皇女を立てて皇后とされました。
⑥新羅・蝦夷との紛争
 仁徳天皇五十三年(西暦356年)、新羅が朝貢しなかった。上毛野君の先祖:竹葉瀬(たかはせ)・弟:田道(たじ)を遣して討たせた。四つの邑の人民を捕えて連れて帰った。
 五十五年(西暦358年)、蝦夷が叛いたので、田道を遣して討たせた。
 五十八年(西暦361年)、呉国(くれのくに)・高麗国(こまのくに)が朝貢してきた。
                                            (16)終り

(17)第17代:履中(りちゅう)天皇
         (大兄(おおえの)去来(いざほ)穂別(わけの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=百舌鳥(もずの)耳原南(みみはらのみなみの)陵(みささぎ)
 墳名=百舌鳥陵山古墳・ミサンザイ古墳・石津丘古墳
 陵の形=前方後円(全長360m)・堀
 所在地=大阪府堺市石津ヶ丘町
 交通=JR阪和線「上野芝駅」下車、西へ400m。(仁徳天皇陵の南)

b.履歴
 御名・異称=大兄(おおえの)去来(いざほ)穂別(わけの)尊(みこと)
 父=第16代:仁徳(にんとく)天皇
 母=磐之姫(いわのひめの)命(みこと)
 皇后=草香(くさかの)幡棱(はたひの)皇女(ひめみこ)
 妃=黒媛(くろひめ)、太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)、
    高鶴(たかつるの)朗(いら)姫(つめ)
 皇子女=磐坂(いわさかの)市辺押羽(いちのへのおしわの)皇子(みこ)、
       御馬(みまの)皇子(みこ)、青海(あおみの)皇女(ひめみこ)、
       中磯(なかしの)皇女(ひめみこ)、
 誕生= ? 
 立太子=仁徳(にんとく)天皇31年(西暦343年)正月15日
 即位=履中(りちゅう)天皇元年(西暦400年)2月1日
 崩御=履中(りちゅう)天皇6年(西暦405年)3月15日
 在位年数=6年
 年齢=70歳
 年号=―――
 皇居=磐余(いわれの)稚桜宮(わかさくらのみや)(奈良県桜井市池之内)

c.主な出来事
 履中(りちゅう)天皇四年(西暦404年)8月8日、始めて諸国に「国史(ふみひと)」(諸器官)を置いた。

(18)第18代:反正(はんぜい)天皇
         (瑞歯別(みずはわけの)天皇(すめらみこと))
a。御陵
 陵名=百舌鳥(もずの)耳原北(みみはらのきたの)陵(みささぎ)
 墳名=田出井山古墳・楯古墳
 陵の形=前方後円・堀(全長 約150m)
 所在地=大阪府堺市北三国ヶ丘町二丁目
 交通=南海電車「堺東駅」下車、東へ400m。(仁徳天皇陵の北)

b.履歴
 御名・異称=多遲比(たじひの)瑞歯別(みずはわけの)尊(みこと)
 父=第16代:仁徳(にんとく)天皇
 母=磐之姫(いわのひめの)命(みこと)
 皇后=津野媛(つのひめ)、弟媛(おとひめ)(津野媛(つのひめ)の妹)
 皇子女=香火姫(かひのひめ)皇女(みこ)、円(つぶらの)皇女(ひめみこ)、
       財(たからの)皇女(ひめみこ)、高部(たかべの)皇子(みこ)
 誕生= ? 
 立太子=履中(りちゅう)天皇2年(西暦401年)正月4日
 即位=反正(はんぜい)天皇元年(西暦406年)正月2日
 崩御=反正(はんぜい)天皇5年(西暦410年)正月23日
 在位年数=5年
 年齢=  歳
 年号=―――
 皇居=丹比(たじひの)芝籬宮(しばかきのみや)(大阪府松原市上田町)
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by ikawazukbr | 2012-05-23 10:30 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(16)第16代:仁徳天皇(つづき)
c.主な出来事
①応神(おうじん)天皇41年(西暦310年)2月15日、応神(おうじん)天皇が崩御された。応神天皇は次代を莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子(みこ)に託しておられたが、莵道稚郎子皇子は、兄の大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)(後の仁徳(にんとく)天皇)に譲ろうとされ即位されなかった。
 莵道稚郎子皇子は大鷦鷯尊に対して「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くでなければならない。上に民を喜ぶ心があって国民を使えば、国民は欽然(きんぜん)として天下は安らかです。私は弟で、そうした過去の記録もありません。どうして兄を超えて位をつぎ、天業(てんぎょう)を統べることができましょうか。大王(きみ)(大鷦鷯尊)は立派なご容姿です。仁孝の徳があり歳も上です。天下の君となるのに十分です。先帝(応神天皇)が私を太子とされたのは、特に才能があるからというのではなく、ただ愛されたからです。宗廟(くに)社稷(いえ)に仕えることは重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です。どうか君は疑われず、帝位についてください。私は臣下としてお助けするばかりです。」と仰せられました。
 大鷦鷯尊は答えて「先帝も『皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ』と申されている。それで前もって明徳の人を選び、王(莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子(みこ))を皇太子として立てられた。天皇の嗣(みつぎ)にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられた。寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるようにされた。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、弟王の願いに従うことができようか。」と申された。
固く辞退(じたい)して受けられず譲(ゆず)り合われ、皇位は三年も空いたままであった。
 莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子(みこ)は「自分は兄の意思を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」と申されて、ついに自殺されてしまった。
 大鷦鷯尊は莵道稚郎子皇子の死を聞いて、驚いて急きょ難波宮から莵道宮(うじのみや)に来られた。胸を打ち泣きさけんで為すすべを知らぬ様子であった。悲しみ慟哭されること甚だしかった。

②仁徳(にんとく)天皇の即位
 仁徳天皇元年(西暦313年)正月3日、大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)は即位された。難波(なにわ)に宮を造られ高津宮(たかつのみや)と云う。上塗りもせず、柱に飾りも付けず、屋根も萱をそろえてない、粗末な造りでありました。自分のことの為に人民に負担を掛けないためであった。二年(西暦314年)3月8日、磐之姫(いわのひめの)命(みこと)を皇后とされた。

③民の竈の煙
 仁徳天皇四年(西暦315年)2月6日、群臣に詔(みことのり)して「高澱(たかどの)に登って遙かに眺めると、人家の煙があたりに見られない。これは人民が貧しくて炊(かし)ぐ人がないのだろう。昔,聖王(せいおう)の御世には、人民は君の徳を称える声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政(まつりごと)について三年経ったが、褒め称える声も起らず、炊煙はまばらになっている。これは五穀が実らず百姓が窮乏しているのであろう。都の内ですらこの様子だから、遠い国ではどんなであろうか。」と申された。
 同・3月21日、詔して「今後三年間総て課税をやめ、人民の苦しみをやわらげよう。」と申された。この日から御自身も、御衣や履物は敗れるまで使われ、御食物を無駄にされず、慎ましくされて民の負担を減らそうとなされた。宮殿は傷んで雨漏が酷くなったが、修理もされなかった。この後、天候も穏やかで五穀豊穣が続き、人民は潤ってきて、徳を褒める声も起り、炊煙も賑やかになってきました。
 七年(西暦320年)4月1日、天皇が高澱に登って一望されると、人家の煙は盛んに上がっていた。天皇は「天が人君を立てるのは、人民の為である。人民が根本である。それで古(いにしえ)の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだなら、自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである。」と申された。
 9月、諸国の者が「課役が免除されて三年になります。そのため宮殿は荒れ,倉は空になりました。いま人民は豊かになって、家には蓄えもできました。こんなときに税をお払いして、宮殿を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう。」と申し上げました。けれどもまだ課税をお許しにならなかった。
 十年(西暦323年)10月、ようやく課税を命じられ宮殿を造られた。人民たちは促されなくても、老いも若きも材を運び土籠を背負って働いたので、宮殿は立派に整った。
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by ikawazukbr | 2012-05-21 14:05 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(16)第16代:仁徳(にんとく)天皇(大鷦鷯(おおさざきの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=百舌鳥(もずの)耳原中(みみはらのなかの)陵(みささぎ)
 古墳名=大山古墳・大仙陵古墳
 陵の形=前方後円・三重堀(最大の陵である。全長486m)
 所在地=大阪府堺市大仙町
 交通=JR阪和線「百舌鳥駅」下車、西へ400m

仁徳(にんとく)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵(ごりょう)
 第17代:履中(りちゅう) 天皇(てんのう)
       (大兄(おおえの)去来保別(いざほわけわけの)天皇(すめらみこと))=
       百舌鳥(もずの)耳原南(みみはらのみなみの)陵(みささぎ)
 第18代:反正(はんぜい) 天皇(てんのう)
       (瑞歯別(みずはわけの)天皇(すめらみこと))陵(みささぎ)=
       百舌鳥(もずの)耳原北(みみはらのきたの)陵(みささぎ)
 他に 御廟山(みたまやま)古墳・いたすけ古墳がある。

b.履歴
 陵名・異称=大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)
 父=第15代:応神(おうじん)天皇
 母=仲姫(なかつひめの)命(みこと)、
 皇后=磐之姫(いわのひめの)命(みこと)、八田(やたの)皇女(ひめみこ)、
 妃=日向(ひむかの)髪長媛(かみながひめ)
 皇子女=大兄(おおえの)去来保別(いざほわけわけの)尊(みこと)
       (後の履中(りちゅう)天皇)、住吉中(すみのえのなかつ)皇子(みこ)、
       瑞歯別(みずはわけの)尊(みこと)(後の反正(はんぜい)天皇)、
       雄朝(おあさ)津間稚子(つまわくごの)宿禰(すくねの)尊(みこと)
       (後の允恭(いんきょう)天皇)、
       大草香(おおくさかの)皇子(みこ)、幡梭(はたひの)皇女(ひめみこ)、
 誕生=神功(じんぐう)皇后(こうごう)摂政(せっしょう)57年(西暦257年)
 立太子=?
 即位=仁徳(にんとく)天皇元年(西暦313年)正月3日
 崩御=仁徳(にんとく)天皇87年(西暦399年)正月16日
 在位年数=87年
 年齢=143歳
 年号=―――
 皇居=難波(なにわの)高津宮(たかつのみや)(大阪府大阪市東区)
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by ikawazukbr | 2012-05-20 14:35 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
c.主な出来事
①百済(くだら)の国との関係
 応神(おうじん)天皇三年(西暦273年)、百済(くだら)の国で辰斯王(しんしおう)が位についたが、天皇に対して礼を失した。紀角(きのつのの)宿禰(すくね)・羽田(はたの)矢代(やしろの)宿禰(すくね)・石川(いしかわの)宿禰(すくね)・木莵(つくの)宿禰(すくね)を遣わして、その礼に背くことを責めさせた。百済の国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰等は阿花(あくえ)を立てて王として帰ってきた。
 応神天皇七年(西暦277年)、高麗(こま)人・百済(くだら)人・仁那(みまな)人・新羅(しらぎ)人等が来朝した。
 応神天皇八年(西暦278年)、百済人が来朝した。

②髪長媛(かみながひめ)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(後の仁徳(にんとく)天皇)
 応神天皇11年(西暦281年)、ある人が「日向の国に髪長媛(かみながひめ)という嬢女(おとめ)がいます。諸県(もろかた)の君牛(うし)諸井(もろい)の娘で、国中の美人です」と申し上げた。天皇は喜ばれて、髪長媛を召された。大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)は髪(かみ)長媛(ながひめ)を一眼見て心ひかれました。天皇は、大鷦鷯尊が髪長媛を気にいっているのを見て、娶あわせようと思われた。大鷦鷯尊は髪長媛を娶とり仲睦まじくなられた。

③百済の国との関係(弓月君(ゆずきのきみ)・阿直岐(あちき)・王仁(わに))
 応神天皇14年(西暦284年)、百済から弓月君がやってきた。奏上して「私の国の百二十県の人民を率いてやってきましたが、新羅(しらぎ)人が邪魔をしているので、加羅(から)の国に留まっています」と云う。そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)を遣して、弓月の民を加羅の国によばれた。しかし襲津彦は3年経っても帰ってこなかった。
 応神天皇15年(西暦285年)8月、百済の王は阿直岐(あちき)を遣して良馬二匹を奉った。阿直岐は学問に秀でていたので、太子莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の学問の師とされた。阿直岐に「百済には、お前より優れた学者がいるか」と尋ねると、「王仁(わに)という優れた人がいます」と答えがあった。すぐに荒田別(あらたわけ)・巫別(かむなぎわけ)を遣して、召された。
 応神天皇16年(西暦286年)2月、王仁がきた。太子莵道稚郎子の学問の師とされ、諸々の典籍を学ばれた。王仁は総てによく通達している学者であった。
 応神天皇16年(西暦286年)百済の阿花王が亡くなったので、直支王(ときおう)(阿花王の長子)が位に就いた。
 応神天皇16年(西暦286年)8月、平群(へぐりの)木莵(つくの)宿禰(すくね)・的(いくはの)戸田(とだの)宿禰(すくね)に精兵を授けて加羅の国に遣した。木莵宿禰らは兵を進めて新羅の国境に迫った。新羅の王は恐れて服した。そこで弓月の民を率いて、襲津彦(そつびこ)と共に還ってきた。
 応神天皇25年(西暦295年)、百済の直支(とき)王が亡くなった。その子の久爾辛(くにしん)が位に就いた。
 応神天皇37年(西暦307年)2月、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉の国に遣して、縫工女を求めた。呉の国王は縫女(ぬいめ)として、兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の四人を与えた。
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by ikawazukbr | 2012-05-17 17:40 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(15)第15代:応神(おうじん)天皇(誉田別(ほむだわけの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=恵我(えがの)藻伏崗(もふしおかの)陵(みささぎ)
 古墳名=誉田山(こんだやま)古墳・誉田(こんだ)御廟山(ごびょうやま)古墳
 陵の形=前方後円・堀
   誉田山古墳は前方後円墳で堀をもち、全長422m、前方部の幅330m、
   前方部の高さ35m、後円部の径267m、後円部の高さ36mもある。
   大阪府堺市にある第16代:仁徳(にんとく)天皇陵が最大(全長486m、前方部の
   幅300m、前方部の高さ27m、後円部の径245m、後円部の高さ30m)であるが、
   それに次ぐ2番目の大きさである。
 所在地=大阪府羽曳野市誉田6丁目
 交通=近鉄:南大阪線「道明寺駅」下車、西ヘ1,200m

b.履歴
 御名・異称=誉田別(ほむだわけの)尊(みこと)、
         胎中(はらのうちにまします)天皇(すめらみこと)
 父=第14代:仲哀(ちゅうあい)天皇
 母=気長足姫(おきながたらしひめの)命(=神功(じんぐう)皇后(こうごう))
 皇后=仲姫(なかつひめの)命
 妃=高城入姫(たかぎのいりひめ)(仲姫命の姉)、弟姫(仲姫命の妹)、
    宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(和珥臣の祖:日触使(ひふれのおみ)の娘)
    小扁瓦媛(おなべひめ)(宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の妹)、
    弟姫(河派仲彦(かわまたなかつびこ)の娘)
    糸媛(いとひめ)(桜井田部(さくらいたべの)連男鉏(むらじおさい)の妹)、
    日向(ひむかの)泉長媛(いずみのながひめ)、
 皇子女=荒田(あらたの)皇女(ひめみこ)、
       大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)(後の仁徳(にんとく)天皇)、
       根鳥(ねとりの)皇子(みこ)、額田(ぬかたの)大中彦(おおなかびこの)皇子、
       大山守(おおやまもりの)皇子、去来真稚(いざのまわかの)皇子、
       大原(おおはらの)皇女、澇来田(こむくたの)皇女、阿倍(あべの)皇女、
       淡路(あわじの)御原(みはらの)皇女、紀之莵野(きのうのの)皇女、
       莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子、矢田(やたの)皇女、
       雌鳥(めとりの)皇女、莵道稚郎姫(うじのわきいらつめの)皇女、
       稚野毛(わかのけ)二派(ふたまたの)皇子、隼総別(はやぶさわけの)皇子、
       大葉枝(おおはえの)皇子、小葉枝(おはえの)皇子
 誕生=仲哀(ちゅうあい)天皇9年(西暦200年)12月14日
 立太子=神功(じんぐう)皇后(こうごう)摂政(せっしょう)3年(西暦203年)正月3日
 在位=応神(おうじん)天皇元年(西暦270年)正月1日
 崩御=応神(おうじん)天皇41年(西暦310年)2月15日
 在位年数=41年
 年齢=111歳
 年号=―――
 皇居=軽島(かるしまの)豊明宮(とよあかるのみや)(奈良県橿原市大軽町)
     難波(なにわの)大隅宮(おおすみのみや)(大阪市東区)
     磐余(いわれの)稚桜宮(わかさくらのみや)(奈良県桜井市池之内)
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by ikawazukbr | 2012-05-14 09:20 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(14特)神功(じんぐう)皇后(こうごう)(つづき)
c.主な出来事(つづき)
③新羅(しらぎ)征伐(せいばつ)
 仲哀(ちゅうあい)天皇9年(200年)9月、神の教えがあって云われるのに、「和魂(にぎみたま)は王の身の命を、荒魂(あらみたま)は先鋒として軍船を導くだろう〕と。10月、鰐浦(わにうら)から出発され、天神(てんしん)地祇(ちぎ)に守られ導かれて、順風が吹き帆船は浪に送られ、舵や櫂を使わずに新羅に着いた。そのとき船を乗せた波が国の中にまで及んだ。
 新羅の王は、「新羅の建国以来、かつて海水が国の中にまで上ってきたことは聞いたことが無い。天運が尽きて国が海になるかもしれない」と。軍船が海に満ち,鼓笛の音が響いた。新羅の王は遙かに眺めて、白旗をあげて降伏し服従を誓った。金・銀・彩色・綾・羅・絹を沢山の船に乗せて、軍船を従わせた。
 高麗(こうらい)と百済(くだら)の二国も、この事を聞いて、とても勝ち目のないことを悟って、同様に降伏し服従を誓った。(これを三韓と云う)
 皇后は新羅から帰られた。12月14日、後の応神(おうじん)天皇が筑紫で産まれた。
④麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)の策謀
 新羅を討たれた翌年、麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)(仲哀(ちゅうあい)天皇の御子)は、謀っていう「いま皇后は子があり、群臣はみな従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。吾らは兄であるのに、どうして弟に従うことができようか」と。謀(はかりごと)を企て皇后を殺そうとしたが、麛坂王が事故死してしまった。これを知った皇后は、皇子を抱いて迂回して南海に出て紀伊の水門(みなと)に泊まられた。真直に難波に向われた。ところが船がぐるぐる回って進まなくなった。
 それで武庫(ぶこ)の港に帰って占われた。天照大神は「和が荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(摂津の国の広田神社)の地に置くのが良い」と云われた。幼日女尊(わかひるめのみこと)は「自分は長狭(ながさ)の国(摂津の国の生田神社)に居りたい」と云われた。事代主神は「自分を長田の国(摂津の国の長田神社)の地に祀るように」と云われた。表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)の三神は「わが和魂(にぎみたま)を大津の渟名倉(ぬなくら)の長狭(ながさ)に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と云われた。それぞれに仰せのままにお祭りしたので、平穏に海を渡ることが出来るようになった。
 忍熊王(おしくまのみこ)は、軍を率いて退き、宇治に陣取った。皇后は紀伊の国においでになられた。武内宿禰と武振熊(たけふるくま)(和珥臣(わにのおみ)の先祖)に忍熊王を討つように命じた。宇治川で忍熊王は亡くなった。この年が神功摂政(せっしょう)元年(西暦201年)である。
⑤誉田別皇子(ほむたわけのみこ)の立太子
 神功摂政二年(西暦202年)1月3日、誉田別皇子(ほむたわけのみこ)を立てて皇太子として、都を大和の国の磐余(いわれ)に造った。これを若桜宮と云う。
 神功摂政五年(西暦205年)3月7日、新羅の王が朝貢(ちょうけん)してきた。
 神功摂政39~43年に魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に触れているが、議論が分かれており、その関連は疑問視されている。
 神功摂政47年(西暦247年)4月、百済の王と新羅の王が朝貢してきた。
 神功摂政49年(西暦249年)3月、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍として、卓淳国(とくじゅんこく)(大邱にあった)に送り、新羅を攻め撃ち破った。各地を平定し、一部を百済に与えた。
 神功摂政51年(西暦251年)3月、百済の王が朝貢してきた。
 神功摂政52年(西暦252年)9月、百済の王が朝貢してきた。この中には七枝刀(ななつきやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面・等の重宝があった。
 神功摂政62年(西暦262年)、新羅が朝貢しなかったので、襲津彦を使わして新羅を討たせた。
 神功摂政69年(西暦269年)4月17日、稚桜宮にて崩御されました。年は一百歳。
 神功摂政69年(西暦269年)10月15日、狭城(さきの)楯列(たてなみの)陵(みささぎ)の葬った。諡(おくりな)を気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と云う。
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by ikawazukbr | 2012-05-11 14:42 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(14特)神功(じんぐう)皇后(こうごう)
     (気長足姫(おきながたらしひめの)尊(みこと))=
     第14代:仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后
 天皇(すめらみこと)の御位には付かれておりませんが、次の第15代:応神(おうじん)天皇が即位されるまでの70年間、摂政としての御働をなされました。その長期間の事績から『日本書記』にも一巻を設けておりますので、ここでも(14特)として記述いたします。
a.御陵
 陵名=狭城(さきの)楯列(たてなみ)池上(いけのえの)陵(みささぎ)
 古墳名=五社神(ござし)古墳
 陵の形=前方後円・堀(全長275m、後円部径195m、後円部高23m、
                前方部幅155m、前方部高27m)
 所在地=奈良県奈良市山稜町宮ノ谷
 交通=近鉄:京都線「平城駅」下車、徒歩3分
b.履歴
 御名=気長足姫(おきながたらしひめの)尊(みこと)(開化(かいか)天皇の曽孫、
                   気長宿禰(おきながのすくねの)王(おおきみ)の娘)
      幼時から聡明で、叡智であらせられた。要望も優れて美しく、
      巫女的性格も兼ねそなえておられた。
 父=気長宿禰(おきながのすくねの)王(おおきみ)
 母=葛城(かずらぎ)高顙媛(たかぬかひめの)命(みこと)
 天皇=仲哀(ちゅうあい)天皇二年(西暦193年)、皇后となられた
 皇子女=誉田別(ほむたわけの)尊(みこと)またの名を胎中(はらのうちにまします)
       天皇(すめらみこと)(後の応神(おうじん)天皇(てんのう))
 崩御=神功(じんぐう)摂政(せっしょう)69年(正ら木269年)4月17日
 年齢=100歳

c.主な出来事
①仲哀(ちゅうあい)天皇にお告げをくだされた神
 仲哀天皇9年(200年)2月、皇后は、天皇が神のお告げに従わないで早く亡くなられたことを悼んで、この神をよく知り財宝のある国を求めようとされました。罪を祓い過ちを改めて、さらに斎宮(いわいのみや)を小山田邑にたてられました。
 皇后は、吉日をえらんで斎宮に入り、自ら神主となられた。武内(たけしうちの)宿禰(すくね)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主(いかつのおみ)を審神者(さにわ)とし、奉幣を数多く積まれて神に請うて申された。「先の日に天皇に教えられたのは、どこの神でしょうか? どうかその御名を知らせてくださりませ」と。
 七日七夜に至って、「伊勢の国の度会県(わたらいのあがた)の五十鈴宮(いすずのみや)においでになる。名は撞堅木(つきさかき)巌之御魂(いつのおたま)天疎(あまさかる)向津媛(むかつひめの)命(みこと)」、「形に顕われた吾は、尾田の吾田節の淡郡にいる神である」、「天事代虚事代玉籖入彦巌之事代(いつのことしろの)神」、最後に「日向の国の橘の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちている神、名は表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)(住吉の三神)の神」と名乗られた。
②熊襲(くまそ)征伐(せいばつ)
 仲哀(ちゅうあい)天皇9年(200年)3月、神の言葉を聞いて教えのままに祀り、鴨別(かものわけ)(吉備臣の祖)を遣わして熊襲の国を討たせた。いくらも経たぬのに自然と服従した。皇后は、更に神祇(しんぎ)を祭り、男装して軍を率いて新羅(しらぎ)に向われることになった。(つづく)
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by ikawazukbr | 2012-05-09 10:23 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(14)第14代:仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)
    (足仲彦(たらしなかつひこの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
陵名=恵我(えがの)長野(ながのの)西陵(にしのみささぎ)
古墳名=岡ミサンザイ古墳
陵の形=前方後円・堀(全長242m)
所在地=大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
 交通=近鉄南大阪線「藤井寺」下車、バスで「御陵前」下車、東へ200m

仲哀(ちゅうあい)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 日本武尊こと(やまとたけるのみこと)白鳥陵(しらとりのみささぎ)
 第15代:応神(おうじん)天皇(誉田(ほむたの)天皇(すめらみこと))=
       恵我(えがの)藻伏岡(もふしのおかの)陵(みささぎ)
 仲姫命(なかつひめのみこと)(第15代:応神(おうじん)天皇の皇后)=
       仲津山(なかつやまの)陵(みささぎ)
 第19代:允恭(いんぎょう)天皇(雄朝津(おあさづ)間稚子(まわくごの)宿禰(すくねの)
       天皇(すめらみこと))=恵我(えがの)長野北(ながののきたの)陵(みささぎ)
 第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇(大泊瀬(おおはつせの)幼武(わかたけの)天皇
       (すめらみこと))=丹比(たじひの)高鷲原(たかわしはらの)陵(みささぎ)
 第22代:清寧(せいねい) 天皇(白髪(しらがの)武広国(たけひろくに)押稚(おしわか)
       日本根子(やまとねこの)天皇(すめらみこと))=
       河内(かわちの)坂門原(さかどのはらの)陵(みささぎ)
 第24代:仁賢(にんけん) 天皇(億計(おけの)天皇(すめらみこと))=
       埴生(はにゅうの)坂本(さかもとの)陵(みささぎ)
 第27代:安閑(あんかん) 天皇
       (広国押(ひろくにおし)武金日(たけかなひの)天皇(すめらみこと))=
       古市(ふるちの)高屋丘(たかやのおかの)陵(みささぎ)
 来目(くめの)皇子(みこの)墓(はか)(第31代:用明(ようめい)天皇(てんのう)の皇子、
       聖徳太子の弟)=埴生(はにゅうの)崗上(おかのうえの)墓(はか)
 いずれも近鉄:南大阪線「古市駅」・「道明寺駅」・「土師の里駅」・「藤井寺駅」から
 1km位の距離です。上記の他にも大小の古墳が数多くあります。

b.履歴
 御名・異称=足仲彦(たらしなかつひこの)尊(みこと)
 父=日本武尊(やまとたけるのみこと)
 母=両道(ふたじ)入姫(いりひめの)命(みこと)
 皇后=気長足姫(おきながたらしひめの)命(みこと)(=神功(じんぐう)皇后(こうごう))
 妃=大中媛(おおなかひめ)、弟媛(おとひめ)、
 皇子女=麛坂(かごさかの)皇子(みこ)、忍熊(おしくまの)皇子(みこ)、
       誉屋別(ほむやわけの)皇子(みこ)、
       誉田別(ほむたわけの)皇子(みこ)(後の応神(おうじん)天皇(てんのう))
 誕生= ? 
 立太子=成務(せいむ)天皇48年(西暦178年)3月1日
 即位=仲哀(ちゅうあい)天皇元年(192年)正月11日
 崩御=仲哀(ちゅうあい)天皇9年(200年)2月6日
 在位年数=9年
 年齢= ? 
 年号=―――
 皇居=志賀(しがの)高穴穂宮(たかあなほのみや)(滋賀県大津市坂本穴太町)
      角鹿(つぬがの)笥飯宮(けいのみや)(福井県敦賀市)
      穴門(あなとの)豊浦宮(とよらのみや)(山口県下関市長府)
      筑紫(つくしの)橿日宮(かしひのみや)(香椎宮)(福岡県福岡市東区香椎町)
      磐余(いわれの)稚桜宮(わかさくらのみや)(奈良県桜井市池之内)=(神功皇后)

c.主な出来事
①熊襲(くまそ)征伐(せいばつ)
 仲哀(ちゅうあい)天皇二年(193年)3月、南海道を巡幸され紀国(きのくに)の徳靭津宮(ところつのみや)に居られたとき、熊襲が叛いたので征伐に向われた。穴門(あなと)(山口県)で皇后を待たれた。
 仲哀天皇八年(199年)9月、神が皇后に神託(しんたく)を垂れ、「熊襲が従わないことで征伐に向うより、良く自分を祀ったら、その後ろにいる新羅国(しらぎのくに)は刀に血ぬらないで、きっと服従するであろう。自然と熊襲も従うであろう」と。
 天皇は神のお言葉を聞かれたが、疑いの心が残ったままであった。熊襲を討たれたが、勝てずに帰られました。神は、また皇后に託され「汝はわが言葉を実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。今、皇后は孕(みごも)っておられるので、その御子(みこ)が国を得られるであろう」と。
 仲哀天皇九年(200年)2月、急に病気になられ、翌日にはなくなられました。神の御言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことが窺がわれます。
 皇后は、天皇の裳を隠して天下に知らされずに、時の情勢に対処されました。
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by ikawazukbr | 2012-05-06 10:20 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(13)第13代:成務(せいむ)天皇
    (稚足彦(わかたらしひこの)天皇(すめらみこと))(小碓(おうすの)命(みこと)=
     日本武尊(やまとたけるのみこと)の異母弟)
a.御陵
 陵名=狭城(さきの)盾列(たたなみの)池後(いけじりの)陵(みささぎ)
 古墳名=佐紀(さきの)石塚山(いしづかやま)古墳
 陵の形=前方後円・堀(全長218m)
 所在地=奈良県奈良市山稜町
 交通=近鉄:京都線「平城駅」下車、東へ600m
b.履歴
 御名・異称=稚足彦(わかたらしひこの)尊(みこと)
 父=第12代:景行(けいこう)天皇
 母=八坂入姫(やさかいりひめの)命(みこと)
 皇后=弟財郎女(おとたからいらつめ)
 誕生=景行(けいこう)天皇14年(西暦84年)
 立太子=景行(けいこう)天皇51年(121年)8月4日
 即位=成務(せいむ)天皇元年(131年)正月5日
 崩御=景行(けいこう)天皇60年(190年)6月11日
 在位年数=60年
 年齢=107歳
 年号=―――
 皇居=志賀(しがの)高穴穂宮(たかあなほのみや)(滋賀県大津市坂本穴太町)
c.主な出来事
 成務(せいむ)天皇5年(136年)9月、諸国に令して、国郡に造長(みやっこのおさ)を立て、県邑に稲置(いなき)をおき、それぞれ盾(たて)矛(ほこ)を賜わって印とした。山河を境として国県を分け、縦横の道にしたがって邑里(むら)を定めた。そして、相応しい人を選んで、国郡に長(おさ)を、県邑に首(かみ)を任じた。これにて人々も安定し、天下(あまのした)は無事に治まるようになった。
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by ikawazukbr | 2012-05-03 10:30 | 旅行記