井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
<   2012年 04月 ( 15 )   > この月の画像一覧
みささぎ参拝の薦め
(12)第十二代:景行天皇(つづき)
c.主な出来事(つづき)
④日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征
 景行(けいこう)天皇40年6月(110年)、東国の蝦夷(えみし)が背いて周辺の諸国が動揺した。大碓皇子(おおうすのみこ)は、東国の討伐に出されることを恐れて隠れたが、ついに美濃の国を任されることになり、任地に行かされた。身毛津(みげつの)君(きみ)、守(もりの)君(きみ)の先祖となった。
 日本武尊は、雄々しく「熊襲を平定してから、いくらも日も経ていないが、今また東国の蝦夷(えみし)が叛いた。私にとっては大変ですが、急いで東国を平定する為に参ります」と云われました。天皇は、日本武尊を征夷(せいい)の将軍に任じられ「・・・・深謀(しんぼう)遠慮(えんりょ)をもって,良くない者をこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わず自ずから従うようにさせよ、言葉で暴(あら)ぶる神を静まらせ、やむお得ないときは武を振って姦鬼(かんき)を打ち祓え」と申されました。
 日本武尊は出発し、途中、伊勢神宮を参拝されました。倭姫命(やまとひめのみこと)に「いま天皇の命を承って東国に行き、諸々の欺く者どもを討つことになりました」と、お別れの挨拶を申し上げました。倭姫命は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を日本武尊に授け「よく気をつけて、決して油断しないように行きなさい」と申されました。
 日本武尊が初めに駿河に行かれたとき、その地の賊が欺いて野原での狩りを勧めた。日本武尊が野原の中にいるとき、火を付けられ囲まれてしまった。日本武尊は火打石を取り出して火をつけ、迎え火をつくり逃れられた。逆に賊を焼き滅ぼすことになった。ここを焼津という。
 また、一説に皇子の差しておられた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が勝手に抜けだして、皇子の傍らの草が薙ぎ祓われ、難を逃れられた。この事があったので草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。
『古事記』には、倭姫命が「火打ち道具等の御袋も授けた」と書かれている。
⑤弟橘媛(おとたちばなひめ)
 相模(さがみ)から海路を上総(かみつふさ)に渡ろうとされた。日本武尊は、海を望んで「こんな小さい海なんか、飛び上ってでも渡れるだろう」と大言壮語した。ところが沖に出ると暴風が起り、御船は漂流して進まなくなった。同行していた弟橘媛は、「いま海が荒れて御船が沈みそうです。これはきっと海神の仕業です。賎しい身の私ですが、皇子の身代りに海に入りましょう」と云いおえると、すぐ波を押しわけ海に入られました。暴風は嘘のようにすぐに止んだ。日本武尊と弟橘媛の心情、如何ばかりかと心に響く場面です。
 日本武尊は、上総(かみつふさ)から陸奥(むつの)国に入り、葦浦(あしうら)から玉浦(たまうら)を通って蝦夷の支配地に入られた。
⑥日本武尊の病と死
 日本武尊は蝦夷を平定し、日高見国(ひだかみのくに)から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐(かいの)国に入り、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を経て信濃(しなのの)国に入り険しい山路に苦しみながら進まれた。更に尾張に帰り尾張の娘:宮簾媛(みやすひめ)をめとって長く留まられた。近江(おうみ)の五十葺山(いぶきやま)(伊吹山(いぶきやま))に荒ぶる神の居ることを聞いて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を宮簾媛の家に置いたまま徒歩で伊吹山に行くと、山の神は大蛇になって道を塞いだ。日本武尊は、山の神が大蛇になっているとは知らず、踏み越えて進んだ。、山の神は雲をおこして雹を振らせた。霧は峰にかかり谷は暗く、道がわからなくなった。日本武尊は、さまよい歩き正気を失い、酔ったようになった。病気になられたようである。
 山の下の泉の水を飲んで、やっと気がつかれた。ようやく尾張の戻ったが、宮簾媛の家に入らないで、伊勢の尾津(おつ)に到り、そこから能褒野(のぼの)に着いたときには病気がひどくなった。吉備津彦(きびつひこ)を遣わして、天皇に今の状況を奏上された。
 こうして能褒野でお亡くなりになりました。時に三十歳とあります。景行天皇は、小碓命がお亡くなりになった事をお聞きになり、安らかに眠れませんでした。食べても味気なく、昼夜むせび泣き、胸をうってかなしまれました。たいへん嘆かれて「わが子小碓皇子、かつて熊襲の叛いたとき、まだ総角(あげまき)(髪を左右に分け、耳の上で丸く巻いて結い上げる小児の髪型、ときに16歳)もせぬのに、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。東夷が騒いで、他に適当な人がなかったので、やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。朝夕に帰る日を待ち続けた。何の禍か何の罪か、思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれと鴻業(あまつひつぎ)を治めようか」と、申されました。
⑦日本武尊白鳥(しらとりの)陵(みささぎ)
 天皇は、群卿(ぐんきょう)を召して、百僚(ひゃくりょう)に命じて、伊勢の能褒野に葬られました。そのとき日本武尊は白鳥(しらとり)となって、陵(みささぎ)から出て倭国(やまとのくに)を指して飛んで行きました。家来たちが棺を開いてみると、衣だけが残っており屍(しかばね)はありませんでした。そこで白鳥を追っていくと、倭の琴弾原(ことひきのはら)(奈良県御所市冨田)に留まりましたので、そこに陵(みささぎ)を造りました。白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(ふるいちのむら)(大阪府羽曳野市軽里)に留まりましたので、そこにも陵(みささぎ)を造りました。この三つの陵(みささぎ)は、白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼ばれています。更に、白鳥は高く飛んで天に昇っていかれました。
⑧日本武尊の御子
 日本武尊は、両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ)を妃とし、稲依別王(いなよりわけのきみ)(犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)の祖)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(後の成務(せいむむ)天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)、を生まれた。
 次の妃である吉備穴戸武媛(きびあなとのたけひめ)は、武卵王(たけかいごのみこ)(讃岐(さぬきの)綾君(あやのきみ)の祖)、十城別王(とおきわkwのきみ)(伊予別君(いよのわけのきみ)の祖)、を生まれた。次の妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、稚武彦王(わかたけひこのみこ)、を生まれた。
⑧天皇の東国巡幸
 景行(けいこう)天皇53年8月(123年)、天皇は、日本武尊が平定した諸国を巡幸された。景行天皇57年10月(127年)、諸国に田部(たぶ)と屯倉(みくら)を設けられた。
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by ikawazukbr | 2012-04-30 13:43 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(12)第十二代:景行(けいこう)天皇
    (大足彦(おおたらしひこ)忍代別(おしろわけの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=山辺(やまべの)道上(みちのえの)陵(みささぎ)
 古墳名=渋谷(しぶたにの)向山(むかいやま)古墳
 陵の形=前方後円・堀(全長290m、前方部幅165m、後援部径170m)
 所在地=奈良県天理市渋谷町
 交通=近鉄「天理」又は「桜井」下車、バスで「渋谷」下車、南へ100m
      (崇神(すじん)天皇の陵(みささぎ)の南)
b.履歴
 御名=大足彦(おおたらしひこ)忍代別(おしろわけの)尊
 父=第十一代:垂仁(すいにん)天皇
 母=日葉酢姫(ひばすひめの)命
 皇后=播磨(はりまの)稲日大郎女(いなひのおおいらつめ)、
      八坂入姫(やさかいりひめの)命
 妃=水歯郎女(みずはのいらつめ)、五十河媛(いかわひめ)、高田媛(たかたひめ)、
    日向(ひむかの)髪長大田根(かみながおおたね)、襲武媛(そのたけひめ)、
    御刀媛(みはかしひめ)
 皇子女=大碓皇子(おおうすのみこ)、小碓(おうすの)命(日本武(やまとたけるの)尊)、
       稚足彦(わかたらしひこの)尊(後の成務天皇)、
       五百城入彦(いわきいりひこの)皇子、忍野別(おしのわけの)皇子、
       稚倭根子(わかやまとねこの)皇子、大酢別(おおすわけの)皇子、
       渟熨斗(ぬのしの)皇女(ひめみこ)、停名城(ぬなきの)皇女、
       五百城入姫(いおきいりひめの)皇女、麛依姫(かごよりひめの)皇女、
       五十狭城(いさき)入彦(いりひこの)皇女、吉備兄彦(きびえひこの)皇子、
       高城入姫(たかきいりひめの)皇女、弟姫(おとひめの)皇女、
       五百野(いほのの)皇女、神櫛(かみくしの)皇子(讃岐の国造の祖)、
       稲背入彦(いなせいりひこの)皇子(播磨別の祖)、
       武国凝別(たけくにこりわけの)皇子(伊予国御村別(みむらわけ)の祖)、
       日向(ひむかの)襲都彦(そつひこの)皇子(阿牟(あむの)君の祖)、
       国乳別(くにちわけの)皇子(水沼(みぬまの)別(わけ)の祖)、
       国背別(くにせわけの)皇子、
       豊戸別(とよとわけの)皇子(火国別(ひのくにのわけ)の祖)、
       豊国別(とよくにわけの)皇子(日向(ひむかの)国造(くにのみやっこ)の祖)
 誕生=垂仁(すいにん)天皇17年(西暦・前13年)
 立太子=垂仁(すいにん)天皇37年(8年)正月1日
 即位=景行(けいこう)天皇元年(71年)7月11日 
 崩御=景行(けいこう)天皇60年(130年)11月7日
 在位年数=60年
 年齢=143歳
 年号=―――
 皇居=纏向(まきむくの)日代宮(ひしろのみや)(奈良県桜井市穴師)
     志賀(しがの)高穴穂宮(たかあなほのみや)(滋賀県大津市坂本穴太町)
c.主な出来事
①遷都(せんと)
 景行(けいこう)天皇4年11月(67年)都を纏向の地に移した。日代宮という。
 景行(けいこう)天皇58年2月(128年)都を志賀の地に移した。高穴穂宮という。
②諸賊の反乱
 景行(けいこう)天皇12年7月(59年)、熊襲(くまそ)がそむいて不穏な様子になった。天皇は、筑紫に向われました。鼻垂(はなたり)、耳垂(みみたり)、麻剥(あさはぎ)、土折(つちおり)猪折(いおり)、土蜘蛛(つち」くも)・青、土蜘蛛・白、土蜘蛛・打猿(うちさる)、土蜘蛛・八田(やた)、土蜘蛛・国麻呂(くにまろ)、熊襲(くまそ)梟師(たける)、熊津彦(くまつひこ)・弟熊(おとくま)、土蜘蛛・津頬(つつら)、達を討伐されました。
 景行(けいこう)天皇25年2月(46年)、竹内宿禰(たけしうちのすくね)を遣して、東方の諸国の地系や人民の有様を視察させられました。この頃、また熊襲がそむいて怯えさせていた。
③熊襲討伐
 景行(けいこう)天皇27年10月(44年)、小碓命(おうすのみこと)(時に16歳、身丈は1丈、力は抜群に強く、逞しい男である)を熊襲討伐に遣しました。熊襲の国に到着して地形や人の暮らしぶりを見られた。熊襲(くまそ)に魁師(たける)という者がいて、名を取(とろ)石(し)鹿(か)文(や)または川上(かわかみの)熊襲といった。一族を集めて新築祝いをしようとしていた。小碓命は童女のように垂らし髪にして、剣を衣の中に隠して魁師(たける)の酒宴の室に入り、女たちの中に紛れていた。魁師はその童女の容姿を褒めて、手を取って同席させ盃をあげて戯れ遊んだ。夜がふけて人もまばらになり、魁師も酔いがまわった。
 小碓命は、衣の中から剣を取り出して魁師の胸を刺した。魁師は、苦しい息のなか「しばらくお待ちください」とお願いした。小碓命は剣を留めて待たれた。魁師は「あなたは何方でいらっしゃいますか」と問う。小碓命は、、「自分は景行(けいこう)天皇の子で、名は日本童男(やまとおぐな)という」と答える。魁師は「私は国中で最強の者です。人々は私の威力を恐れて従わない者はありません。私は多くの武人に合いましたが、皇子のような方は初めてです。賎しい者からですが、尊号を差し上げたい。お許しくださいますか」という。小碓命は「許そう」と。
 そこで「これ以後、皇子を名づけて“日本武(やまとたけるの)皇子(みこ)”と申し上げたい」と云って死んだ。この事があってから、小碓命を褒め称えて「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と申し上げるようになりました。「ヤマトタケル」は歌舞伎などで観られ、ご存知でしょう。日本武尊は、熊襲を平定し海路を倭に向われ、海中、吉備の穴海(あなのうみ)や難波の柏渡(かしわのわたり)を和(やわ)らげ、水陸の路の安全を確保されました。
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by ikawazukbr | 2012-04-28 11:20 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(11)第11代:垂仁(すいにん)天皇
    (活目入彦(いくめいりひこ)五十狭茅(いさちのちの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=菅原(すがわらの)伏見東(ふしみのひがしの)陵(みささぎ)
 古墳名=尼辻(あまつじ)宝来山(ほうらいさん)古墳
 陵の形=前方後円・堀
       (全長227m、前方部幅118m、後円部径123m、高さ18m)
 所在地=奈良県奈良市尼辻西町
 交通=近鉄京都線「尼ヶ辻駅」下車、南西ヘ700m

垂仁(すいにん)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第十三代:成務(せいむ)天皇(稚足彦(わかたらしひこの)天皇(すめらみこと))=
        狭城(さきの)楯列池後(たたなみのいけじりの)陵(みささぎ)
 第二十代:安康(あんこう)天皇(穴穂(あなほの)天皇(すめらみこと))~
        菅原(すがわらの)伏見西(ふしみのにしの)陵(みささぎ)
 第四十六代:孝謙(こうけん)天皇=重祚されて第四十八代:称徳天皇であります→
 第四十八代:称徳(しょうとく)天皇(宝字称徳幸謙皇帝)高野(たかぬの)陵(みささぎ)
 第11代:垂仁(すいにん)天皇の皇后:日葉酢媛(ひはすひめの)命(みこと)陵(みささぎ)
 第十四代:仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)の皇后:神功(じんぐう)皇后陵(みささぎ)
        (気長足(おきながたらし)姫(ひめの)尊(みこと)陵(みささぎ))

b.履歴
 御名=活目入彦(いくめいりひこ)五十狭茅(いさちの)尊(みこと)
 父=第十代:崇神(すじん)天皇
 母=御間城姫(みまきひめの)命
 皇后=狭穂姫(さほひめの)命、日葉酢媛(ひばすひめの)命
 妃=渟葉田瓊(ぬばたに)入媛(いりひめ)命、真砥野媛(まとのひめ)命、
     薊瓊入媛(あざみにいりひめ)命,迦具夜比売命
     苅幡戸辺(かりはたとべの)命、
     綺戸辺(かにはたとべ)竹野媛(たけのひめの)命
 皇子女=誉津別(ほむつわけの)命、五十瓊敷入彦(いにしきいりひこの)尊、
       大足彦(おおたらしひこの)命(後の景行天皇)、
       大中姫(おおなかつひめの)命、倭姫命(やまとひめのみこと)、
       稚城瓊(わかきに)入彦(いりびこの)命、
       鐘石別(ぬてしけの)命(三尾(みおの)君(きみ)の祖)
       胆香足姫(いかたらしひめの)命、池速別(いけはやわけの)命、
       稚麻津媛(わかあさつひめの)命、磐衛別(いわつくわけの)命、
       祖別(おおじわけの)命、五十日足彦(い かたらしひこの)命(石田君の祖)、
       胆武別(いたけるわけの)命
 誕生=崇神(すじん)天皇29年(西暦前69年)正月1日
 立太子=崇神(すじん)天皇48年(前50年)4月19日
 即位=垂仁(すいにん)天皇元年(前29年)正月2日~
 崩御=垂仁(すいにん)天皇99年(後70年)7月14日
 在位年数=99年、年齢は139歳
 年号=―――
 皇居=纏向(まきむくの)珠城宮(たまきのみや)(奈良県桜井市穴師)

c.主な出来事
①遷都
 垂仁(すいにん)天皇元年(前29年)都を纏向の地に移した。珠城宮という。
②狭穂彦(さほひこの)王(きみ)の謀反
 垂仁(すいにん)天皇四年(前25年)、皇后「狭穂姫(さほひめの)命の兄である狭穂彦(さほひこの)王(きみ)が謀反を企て、自分が皇位につきたいがために、「天皇が眠っているときに頸を刺して殺してくれ」と皇后に匕首を授けました。皇后は、心わななきましたが、たやすく兄を諌めることも出来ず思い悩みました。
 天皇が皇后の膝を枕に昼寝をされたので、皇后は「この時にこそ」と思われたが実行できませんでした。涙があふれて天皇の顔に落ちた。天皇は目覚めて夢をみたことを話し、どういうことであろうか?と申されました。
 皇后は、この謀ほ隠すことが出来ないとさとり、恐れて地に伏して申し上げました。天皇は、狭穂彦に兵を差し向けましたが、戦が長引くうちに、皇后も申し訳ないことと狭穂彦の城に入られました。やがて共に亡くなられました。
 夫である垂仁(すいにん)天皇と兄である狭穂彦の間に“板ばさみ”となって苦悩される狭穂姫命の心情や、狭穂彦の反逆にもかかわらず狭穂姫命を愛しく思って許されようとする天皇の心情が絡み合っている、抒情性豊かな物語であります。
③角力の元祖
 当麻邑(たぎまのむら)の当麻(たぎまの)蹴速(けはや)という力自慢と、出雲国の野見(のみの)宿禰(すくね)が角力をとった。野見宿禰が当麻蹴速のアバラ骨を砕き、腰を踏みくじいて殺した、と書かれています。すざましい角力だったのです。
④伊勢の祭祀
 垂仁天皇二十五年三月、天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりひめの)命からはなして、倭姫命に託されました。倭姫命は大神をご鎮座申し上げるべき良きところを探して行脚されます。笠縫邑→宇陀の篠原→近江国→美濃国→伊勢国に到ります。
 天照大神は「是の神風の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲ふ」と倭姫命に告げたまいました。
 倭姫命は、大神の教えのままに齊宮(いわいのみや)を五十鈴の川上に興(た)てました。是を磯宮(いそのみや)といいます。天照大神が始めて天より降られました處であります。
⑤屯倉(みくら)
 垂仁天皇二十七年、始めて屯倉を来目邑にたてました。屯倉とは、朝廷直轄の農業経営地または直轄領地のことです。
⑤野見宿禰と埴輪
 垂仁天皇二十八年十月、天皇の母の弟:倭彦(やまとひこの)命が亡くなられた。葬ったときに、近習の者を生きたまま陵のまわりに埋めました。何日も昼夜泣きうめき、死んでは犬や鳥が集まり食べました。天皇は、これを見、聞かれてたいへん心を痛められました。「古(いにしえ)からの風習ではあるが、これからは止めよう」と申されました。三十二年七月、皇后:日葉酢媛命が亡くなられた時、野見宿禰が埴土(はにつち)で人や馬など色々の物の形を造り、「この土物(はにもの)を以って生きた人に替え、陵墓(りょうぼ)に立てることを後世のきまりとしてください」と申し出ました。天皇は、たいへん喜ばれて、日葉酢媛命の陵の周りに立てまた。この土物(はにもの)を埴輪(はにわ)と云います。
⑥池や灌漑用水路の造成
 垂仁天皇二十五年、数多くの池や灌漑用水路が造成されました。百姓は富み豊かになり、天下(あめのした)は太平になりました。
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by ikawazukbr | 2012-04-25 15:45 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(10)第十代:崇神(すじん)天皇
 (御間城入彦(みまきいりひこ)五十瓊槙(いにえの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=山辺(やまのべの)道勾(みちのまがりの)岡上(おかのえの)陵(みささぎ)
 古墳名=柳本(やなぎもと)行灯山(あんどんやま)古墳
 陵の形=前方後円・堀
       (全長242m、前方部幅100m、後円部径158m、高さ30m)
 所在地=奈良県天理市柳本町
 交通=JR桜井線「柳本駅」下車、東へ800m

崇神(すじん)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第十二代:景行(けいこう) 天皇
  (大足彦(おおたらしひこ)忍代別(おしろわけの)天皇(すめらみこと))=
   山辺(やまべの)道上(みちのえの)陵(みささぎ)
 第七代:孝霊(こうれい)天皇の皇女:倭迹迹日(やまとととひ)百襲姫
  (ももそひめの)命(みこと)陵(みささぎ)
 箸墓(はしはか)古墳(よく卑弥呼の墓か? と報道されている)・
   巻向(まきむく)石塚(いしつか)古墳(こふん)
b.履歴
 御名・異称=御間城(みまき)入彦(いりひこ)五十瓊槙(いにえの)尊(みこと)・
          御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)
 父=第九代:開化(かいか)天皇
 母=伊香色謎(いかがしこめめの)命
 皇后=御間城姫(みまきひめの)命(大彦(おおひこの)命(みこと)の娘)
 妃=紀伊国(きいのくに)の遠津年魚眼(とおつあゆめ)眼妙媛(まくわしひめ)
   、尾張の大海媛(おおしあまひめ)
 皇子女=活目入彦(いくめいりひこ)五十狭茅(いさちの)尊(みこと)
       (後の垂仁(すいにん)天皇)、彦五十狭茅(ひこいさちちの)命、
       国方(くにかた)姫(ひめの)命、千千衡(ちちつく)倭姫(やまとひめの)命、
       倭彦(やまとひこの)命、五十日鶴彦(いかつるひこの)命、
       豊城(とよき)入彦(いりひこの)命、豊鍬入姫(とよすきいりひめの)命、
       大入杵(おおいりきの)命、八坂入彦(たさかいりひこの)命、
       渟名城入姫(ぬなきいりひめの)命、十市瓊(とうちに)入姫(いりひめの)命
 誕生=開化(かいか)天皇10年(西暦前148年)
 崇神天皇68年(紀元前30年)12月5日
 立太子=開化(かいか)天皇28年(前130年)正月5日
 即位=崇神(すじん)天皇元年(前97年)正月13日
 崩御=崇神(すじん)天皇68年(前30年)12月5日
 在位年数=68年、年齢は119歳
 年号=―――
 皇居=磯城(しきの)瑞籬宮(みずがきのみや)(奈良県桜井市金屋)
c.主な出来事
①遷都
 崇神(すじん)天皇三年(前155年)都を磯城の地に移した。瑞籬宮という。
②四年十月二十三日、崇神(すじん)天皇は、詔を発して次のように申された。
 「わが皇祖(みおや)、諸(もろもろ)の天皇(すめらみこと)たちが、その位に臨(のぞ)まれたのは、ただ一身のためではない。神や人を整え天下(あめのした)を治めるためである。だから代々良い政治をひろめ徳(うつくしび)を布かれた。いま自分は大業(あまつひつぎ)を奉承(うけたまわ)って、国民をめぐみ育うこととなった。どのようにして皇祖の跡をつぎ、ながく窮(きわまり)無い御位を保とうか。群卿(まえつきみたち)百僚(もものつかさ)たちよ、忠貞(ただしきこと)の心をつくして、共に天下(あめのした)を安らかにしよう」
③天照大神を皇居内から笠縫邑へ
 五~六年、国内に疫病がはやり、死ぬ者も多く、土地を離れる者もおおく、反逆する者も出てきた。そのため、これまでは、天照大神の仰せのとおり、天照大神と倭(やまと)大国魂(おおくにたまの)神を天皇の大殿の内に並び祭ってきたが、その神の威(いきおい)を畏(おそ)れて、これ以後、天照大神は豊鍬入姫(とよすきいりひめの)命に託(つ)けて笠縫邑(かさぬいむら)(桜井市三輪の桧原神社あたり)に祀らせ、倭大国魂(やまとおおくにたまの)神は市磯長尾市(いちしのながおち)(倭氏の祖)を祭主として祀らせました。
④大物主大神(おおものぬしのおおかみ)を祀る
 市磯長尾市(いちしのながおち)は、お祀りが出来ない状態になってしまったので、神々をお招きして占いを行った。倭迹迹日(やまとととひ)百襲姫(ももそひめの)命に神懸りして、大物主大神が告げられた。大物主大神は、大和の三輪山を御神体とする(「物」は精霊の意で、本来は雷蛇神である)大和の国の守護神として畏敬せられた神である。大物主大神(三輪氏の祖神=大己貴神(おおなむちのかみ))は、大田田根子(おおたたねこの)命(大物主と活玉(いくたま)依姫(よりひめ)の御子)を祭主として祀らせました。
 後に、倭迹迹日(やまとととひ)百襲姫(ももそひめの)命は、大物主大神の妻となったと書いてある。
⑤天神地祇の社を定め奉りたまう
 天皇は宮廷のある大和だけでなく、全国各地の統一をめざして「八十万の諸神を祭る」とともに、「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)、および神地(かむところ)(神田(しんでん))・神戸(かんべ)(神領)を定められた。
⑥四道(しどう)将軍を派遣
 十年九月、天皇は「民を導く根本は教化(おしえおもぶく)にある。遠い国にも、わが教を広めたい」と、大彦(おおひこの)命を北陸に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に、吉備津彦(きびつびこ)を西海に、丹波道主(たにわのみちぬしの)命を丹波に遣わされた。十一年四月、地方の平定がすんだ。
⑦御肇国(はつくにしらす)天皇
 十二年九月、始めて人民の戸口を調べて、課役(かえき)も定められた。初めて船を作った。天下(あめのした)は、豊かに平穏になったので、御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と称えて申し上げる。
(神武(じんむ)天皇についても「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)」と書かれております)
活目入彦(いくめいりひこ)五十狭茅(いさちの)尊を皇太子に立て、豊城(とよき)入彦(いりひこの)命に東国を治めさせた。豊城入彦命は、上毛野(かみつけのの)君(きみ)、下毛野(しもつけのの)君(きみ)の先祖である。
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by ikawazukbr | 2012-04-22 14:03 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(9)第九代:開化(かいか)天皇
   (稚日本(わかやまと)根子彦(ねこひこ)大日日(おおひひの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=春日(かすがの)率川(いさかわの)坂上(さかのえの)陵(みささぎ) 
 古墳名=念仏寺山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=奈良県奈良市油坂町
 交通=近鉄奈良駅とJR奈良駅の中間位置、どちらの駅からも1km
b.履歴
 御名・異称=稚日本(わかやまと)根子彦(ねこひこ)大日日(おおひひの)尊(みこと)
 父=孝元(こうげん)天皇
 母=鬱色謎(うちしこめの)命
 皇后=伊香色謎(いかしこめの)命(物部氏の祖:大綜麻杵(おおへそきの)の娘
      (父帝の妃であったが、彦太忍信(ひこふつおしのまことの)命(竹内宿禰の祖父)
      を産んだ後に開化(かいか)天皇の妃になられた)
 妃=丹波(たにわの)竹野媛(たかののひめ)、姥津媛(ははつひめ)
 皇子女=御間城(みまき)入彦(いりひこ)五十瓊殖( い にえの)尊(後の崇神天皇)、 
       彦湯産隅(ひこゆむすみの)命、御真津比売(みまつひめの)命、
       彦坐(ひこいますの)王(きみ)、建豊波豆羅和気(たけとよはずらわけの)王
 誕生=孝元(こうげん)天皇7年(西暦前208年)
 立太子=孝元(こうげん)天皇22年(前193年)正月14日
 即位=開化(かいか)天皇元年(前158年)11月12日
 崩御=開化(かいか)天皇60年(紀元前98年)4月9日
 在位年数=61年
 年齢=111歳 
 年号=―――
 皇居=春日(かすがの)率川宮(いさかわのみや)(奈良県奈良市奥子守町)
c.主な出来事
 開化(かいか)天皇元年(前158年)都を春日の地に移した。率川宮という。
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by ikawazukbr | 2012-04-20 13:58 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(8)第八代:孝元(こうげん)天皇
   (大日本(おおやまと)根子彦(ねこひこ)国牽(くにくるの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=剣池(つるぎいけの)嶋上(しまのえの)陵(みささぎ)
 古墳名=中山塚1~3号墳
 陵の形=前方後円(丘陵上の群集墳)
       (初めての形態で、前方部幅60m、後円部軽28m、高さ3m)
 所在地=奈良県橿原市石川町
 交通=近鉄橿原線「橿原神宮前」下車、東へ1km
b.履歴
 御名=大日本(おおやまと)根子彦(ねこひこ)国牽(くにくるの)尊(みこと)
 父=孝霊(こうれい)天皇
 母=細媛(ほそひめの)命
 皇后=鬱色謎(うちしこめの)命(穂積氏の出。
      鐃速日(にぎはやひの)命の後裔、鈴木氏の祖)
 妃=伊香色謎(いかがしこめの)命、埴安媛(はにやすひめ)
 皇子女=大彦(おおひこの)命、
       稚日本(わかやまと)根子彦(ねこひこ)大日日(おおひひの)尊(後の開化天皇)、
       倭迹迹姫(やまとととひめの)命、
       少彦(すくなひこな)男心(おこころの)命、
       彦太(ひこふつ)忍信(おしのまことの)命、
       武埴(たけはに)安彦(やすひこの)命
 誕生=孝霊(こうれい)天皇18年(西暦前273年)
 立太子=孝霊(こうれい)天皇36年(前255年)正月1日
 即位=孝元(こうげん)天皇元年(前214年)正月14日
 崩御=孝元(こうげん)天皇57年(前158年)9月2日
 在位年数=57年
 年齢=116歳
 年号=―――
 皇居=軽(かるの)境原宮(さかいはらみや)(奈良県橿原市大軽町)
c.主な出来事
 孝元(こうげん)天皇4年(前210年)都を軽の地に移した。境原宮という。
備考:大彦(おおひこの)命は、阿倍(あべの)臣(おみ)、膳(かしわでの)臣、
    阿閉(あへの)臣、狭狭城山(ささきのやまの)君(きみ)、
    筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)、
    越国造(こしのくにのみやつこ)、伊賀臣、等すべて七族の先祖である。
    彦太忍信(ひこふつおしのまことの)命は、竹内宿禰(たけしうちのすくね)の祖父。
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by ikawazukbr | 2012-04-17 11:04 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(7)第七代:孝霊(こうれい)天皇(大日本(おおやまと)根子彦(ねこひこ)
                     太瓊(ふとにの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=片丘(かたおかの)馬坂(うまさかの)陵(みささぎ)
 陵の形=山形
 所在地=奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目
 交通=JR和歌山線とJR関西本線(大和路線)「王寺駅」下車、
      バスで「王寺本町2丁目」下車、西へ300m
      近鉄生駒線:王寺駅・近鉄田原本線:新王寺駅とも合流する集合駅
b.履歴
 御名=大日本(おおやまと)根子彦(ねこひこ)太瓊(ふとにの)尊(みこと)
 父=孝安(こうあん)天皇
 母=押媛(おしひめの)命
 皇后=細媛(ほそひめの)命(磯城県主(しきのあがたぬし):大目(おおめ)の娘)
 妃=倭国香媛(やまとくにかひめ)、
    春日之(かすがの)千千速(ちちはや)真若比売(まわかひめ)、
    絚某弟(はえいろど)
 皇子女=大日本(おおやまと)根子彦(ねこひこ)国牽(くにくるの)尊(後の孝霊天皇)、
       倭迹迹日(やまとととひ)百襲姫(ももそひめの)命、
       彦五十狭(びこ い さ)芹彦(せりひこの)命、 
       倭迹迹(やまととと)稚屋姫(わかやひめの)命、
       日子刺肩(ひこさしかたの)命、
       彦狭島(ひこさしまの)命、稚武彦(わかたけひこの)命、
       弟稚武彦(おとわかたけひこの)命、
       千千速比売(ちちはやひめの)命
 誕生=孝安(こうあん)天皇51年(西暦前342年)
 立太子=孝安(こうあん)天皇76年(紀元前317年)正月5日
 即位=孝霊(こうれい)天皇元年(前290年)正月12日
 崩御=孝霊(こうれい)天皇76年(前215年)2月8日
 在位年数=76年、年齢は128歳
 年号=―――
 皇居=黒田(くろだの)廬戸宮(いおとのみや)(奈良県磯城郡田原元町)
c.主な出来事
 孝安(こうあん)天皇102年(前291年)都を黒田の地に移した。廬戸宮という。
備考①:孝霊(こうれい)天皇の御子に、倭迹迹日百姫命の同母弟に
彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこの)命がおられるが、別名を吉備津彦(きびつひこの)命
と申す。この吉備津彦命は、桃太郎であるとの説がある。
備考②:稚武彦(わかたけひこの)命は、吉備臣の祖先である。
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by ikawazukbr | 2012-04-14 09:50 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(6)第六代:孝安(こうあん)天皇(天足彦(あまたらしひこ)国押人(くにおしひとの)天皇
        (すめらみこと))
a.御陵
 陵名=玉手(たまての)丘上(おかのえの)陵(みささぎ)
 陵の形=円丘
 所在地=奈良県御所市大字玉手
 交通=JR和歌山線「玉手駅」下車、南へ300m
b.履歴
 御=日本足彦(やまとたらしひこ)国押人(くにおしひとの)尊(みこと)
 父=孝昭(こうしょう)天皇
 母=世襲足媛(よそたらしひめの)命(みこと)
 皇后=押媛(おしひめの)命
      (同母兄:天足彦(あまたらしひこ)国押人(くにおしひとの)命の娘)
 皇子女=大日本(おおやまと)根子彦(ねこひこ)太瓊(ふとにの)尊、
       大吉備(おおきび)諸進(もろすすみの)命
 誕生=孝昭(こうしょう)天皇49年(西暦前427年)
 立太子=孝昭(こうしょう)天皇68年(前408年)正月14日
 即位=孝安(こうあん)天皇元年(前392年)正月7日
 崩御=孝安(こうあん)天皇102年(前291年)正月9日
 在位年数=102年
 年齢=137歳
 年号=―――
 皇居=室(むろの)秋津島宮(あきつしまのみや)(奈良県御所市室)
c.主な出来事
  孝安(こうあん)天皇2年(前391年)都を室の地に移した。秋津島宮という。
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by ikawazukbr | 2012-04-12 09:24 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(5)第五代:孝昭(こうしょう)天皇
        (観松彦(みまつひこ)香殖稲(かえしねの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=掖上(わきのがみの)博多(はかたの)山上(やまのえの)陵(みささぎ)
 陵の形=山形
 所在地=奈良県御所市大字三室
 交通=近鉄御所線「御所駅」またはJR和歌山線「御所駅」下車、南へ1㎞

孝昭天皇の陵の近くにある御陵
 第六代:孝安(こうあん)天皇(天足彦(あまたらしひこ)国押人(くにおしひとの)天皇)=
       玉手(たまての)丘上(おかのえの)陵(みささぎ)
 第三十五代:皇極(こうぎょく)天皇=重祚されて第三十七代:斉明(さいめい)天皇です→
 第三十七代:斉明(さいめい)天皇(天豊財(あめとよたから)重日足姫
         (いかしひたらしひめの)天皇=越智(おちの)崗上(おかのえの)陵(みささぎ)
b.履歴
 御名=観松彦(みまつひこ)香殖稲(かえしねの)尊(みこと)
 父=威徳(いとく)天皇
 母=天豊津媛(あまとよつひめの)命
 皇后=世襲足媛(よそたらしひめの)命(尾張連の先祖:瀛津世襲(pきつよそ)の妹)
 皇子子=天足彦(あまたらしひこ)国押人(くにおしひとの)命
 誕生=威徳(いとく)天皇5年(西暦前506年)
 立太子=威徳(いとく)天皇22年(前489年)2月12日
 即位=孝昭(こうしょう)天皇元年(前475年)正月9日
 崩御=孝昭(こうしょう)天皇83年(前393年)8月5日
 在位年数=83年
 年齢=114歳
 年号=―――
 皇居=掖上(わきのかみの)池心宮(いけこころのみや)(奈良県御所市大字三室)
c.主な出来事
 孝昭(こうしょう)天皇元年(前475年)都を掖上の地に移した。池心宮(いけこころのみや)という。
備考=孝昭(こうしょう)天皇の御子:天足彦(あまたらしひこ)国押人(くにおしひとの)命は、
     和珥氏、春日氏、小野氏、栗田氏、柿本氏、大宅氏、などの祖。
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by ikawazukbr | 2012-04-11 11:52 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(4)第四代:威徳(いとく)天皇(大日本(おおやまと)彦耜友(びこすきともの)
   天皇(すめらみこと))
a,御陵
陵名=畝傍山(うねびやまの)南繊沙渓上(みなみのまさごのたにのえの)陵(みささぎ)
陵の形=山形
所在地=奈良県橿原市西池尻町
交通=近鉄南大阪線「橿原神宮西口」下車、北へ300m。
     (神武天皇の陵の直ぐ近く、橿原神宮の直ぐ西隣)
b.履歴
 御名=大日本(おおやまと)彦耜友(びこすきともの)尊(みこと)
 父=安寧(あんねい)天皇
 母=渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめの)命
 皇后=天豊津媛(あまつとよつひめの)命(威徳(いとく)天皇の兄:息石耳(おきそみみの)命の娘)
 皇子女=観松彦(みまつひこ)香殖稲(かえしねの)尊(後の孝昭(こうしょう)天皇)、武石彦奇友背命
 誕生=綏靖(すいせい)天皇29年(西暦前553年)
 立太子=安寧(あんねい)天皇11年(前538年)正月1日
 即位=威徳(いとく)天皇元年(前510年)2月4日
 崩御=威徳(いとく)天皇34年(前477年)9月8日
 在位年数=34年
 年齢=77歳
 年号=―――
 皇居=軽(かるの)曲峡宮(まがりおのみや)(奈良県橿原市大軽町)
c.主な出来事
 威徳(いとく)天皇2年(前511年)都を軽の地に移した。曲峡宮(まがりのみや)という。
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by ikawazukbr | 2012-04-10 12:45 | 旅行記