井蛙見聞録
ikawazukbr.exblog.jp

井の中の蛙見聞録
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
カテゴリ
以前の記事
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
<   2012年 03月 ( 7 )   > この月の画像一覧
みささぎ参拝の薦め
(ロ)神代二代:天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと)
陵名:高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)
陵の形:円丘
所在地:鹿児島県姶良郡溝辺町龍管ノ口
交通:「鹿児島空港ターミナル前」から溝辺十文字行バスで「山陵(さんりょう)」下車。
父:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
母:木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-30 10:37 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
④神代三山陵(じんだいさんさんりょう)
 歴代天皇さまの案内に入る前に、神代三山陵をご紹介しておきます。天照大神から神武天皇さまに至る系譜は、次の通りで、特にこの中間の三代のことを(イ)(ロ)(ハ)で述べています。
 天照大神→正哉吾勝勝速日(まさかあかつかちはやひの)天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)→天津彦彦(あまつひこひこ)火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)→天津日高彦(あまつひだかひこ)火火出見尊(ほほでみのみこと)(別名=火折尊(ほおりのみこと)=海幸彦(うみさちひこ))→天津日高彦(あまつひだかひこ)波激武鸕鵜草葺不合尊(なぎさたけうがやふきあえずのみこと)→神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)

(イ)神代初代:天津日高彦(あまつひだかひこ)火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)
陵名=可愛山陵(えのみささぎ)
陵の形=方形
所在地=鹿児島県川内市宮内町字脇園
交通=JR鹿児島本線「川内」下車、上川内行バス「川内高校前」下車、新田神社の隣。
父=天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
母=萬幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)
[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-24 13:11 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
③天皇陵の所在地
 古代の天皇さまの”みささぎ”の所在地については、学会において上記のように多くの異論があるようですが、ここでは『日本書記』に書かれている通りに、また、宮内庁の治定・管理の天皇陵一覧表の通りにいたします。
 参考として森浩一著『天皇陵古墳への招待』筑摩書房刊269ページの表から、また、別冊歴史読本52『図説天皇陵』181ページの表から、次の区分を表示しておきます。
 ◎:ほとんど疑問がない
 ●:妥当なようであるが、考古学上の決め手を欠く
 □:付近により適当な古墳があり、検討すべきである
 △:墳丘の形式が天皇の順位と離れている
 *:付近に可能性のある古墳があり、検討の余地がある
 ?:古墳として疑問、他に候補地を求めたほうがよい
[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-17 09:48 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
2.歴代天皇さまの”みささぎ”の所在地の案内とその時代背景
①参考資料
 第一代:神武天皇さまから第四十一代:持統天皇さままでは、『日本書紀』に書かれている漢字と内容を用います。(『古事記』に書かれている漢字や内容とは相違があります)、第四十二代:文部天皇さま以降は、『続日本紀』・『日本後紀』。その他を用います。
②天皇陵の整備
 現在の天皇陵は、どこでも同じ形式であり、周囲が柵で囲われ人が入れないようになり、鳥居と石灯篭を配した御杯所があります。しかし、このように整備されたのは、幕末期の文久(西暦1861年)時代に、徳川幕府によって始められた修造工事からであります。それまで多くの古墳は周辺の人々にとって農業生産のための場であり、墳丘部は山林として燃料や肥料の供給減であり、周壕は灌漑用水の溜池として利用されていたようです。
 文久の修造によって、形態が整い管理人が置かれたのですが、この工事は元の形に復元するためではなく、見た目の形態を整え、歴代天皇の”みささぎ”が「どの地にある古墳に該当するのか?」を決める事にあったようです。
 文久の修造に主となって活躍されたのは、谷森義臣という方であります。『日本書紀』・『古事記』を始めとする文献を基に、どの地にある古墳が該当するのか?、従来存在した所説を充分に検討しながら、自説を展開された当時として最高の研究成果を残されました。”みささぎ”のほとんどがこのとき決められたようです。しかし、今日において、飛躍的に進んだ文献や考古学の研究成果を見ると疑問が生じ、幾多の異説を生み出すことになっていますが、これも当然といえば当然かもしれません。
 ちなみに、文久の修造といわれておりますが、文久(1861~1864)、元治(1864~1865)、慶応(1865~1868)、明治(1868~)の中頃まで掛かっております。
 時に、幕末、第14代将軍:徳川家茂、第15代将軍:徳川慶喜の時代で、安政6年(1859)には吉田松陰らが死刑されています。文久2年(1862)には桜田門外の変がありました。こうした時代ですから、徳川幕府としても尊皇の姿勢を民衆に見れる形にしなければならなかった、のであると云われています。

[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-14 16:39 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(4)なぜ、”みささぎ”への参拝をお薦めするのか?
 歴代天皇さまの御陵(ごりょう)は、何処にお参りさせていただいても街の喧騒が嘘のように、静寂のなかに清々しく総てを包みこんでくださるように存在しております。その場に身を置いていると、心が洗われたような、ごく自然な感激と感謝が湧いてくるのを覚えます。
 しかしながら、自分がお参りさせていただいた御陵では、参拝に訪れる方に一人も出会うことがなく、いささか寂しく思いました。また、街中に存在する御陵では、遠くからこんもりとした森を確認することができながら、近づくと民家に囲まれていて、その入り口に辿り着くのが時間がかかってしまうことも多くありました。ぜひ多くの方にお参りしていただきたいと強く思いました。
 政治的混乱や東日本大震災で混迷が続く状況のなかですが、皆様方にも、ここで述べる予備知識をもって”みささぎ”への参拝をお薦めしたいと思います。近くに御用のある折に立ち寄ってみることから始められると、無理なくスタート出来るのではないかと思います。
 次回からは歴代の天皇さまの”みささぎ”の所在地を案内すると共に、その時代背景も書いていこうと思っております。、
[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-09 14:27 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(3)神話の意義
 先に、日本の建国の理想は、その根源が『古事記』や『日本書紀』に書かれている“神話”に発すると書きましたが、この事について補足しましょう。
谷口雅春先生は『限りなく日本を愛す』154ページに「神話の意義について」次のように説いておられます。
 「神話というのは直観によって知られたところの「真理」を象徴的神様物語に現わしたものであります。それは象徴でありますから、其のつもりで解釈しなければならない。真理というものには形がないのであります。(中略)大体真理というものには姿形がないから、それをわからせるのには「喩へ話」を持って来なければ都合が悪いので、仏典の中にも無数の寓話がある。・・・・」
 『古事記』上卷の本文冒頭に顕われる神様は、天之御中主神でありますが、谷口雅春先生は、同書186ページに「宇宙の諸々の現象の発する根元の「主」たる神と云う意味が「天之御中主神」であります。」と説いておられます。そして、同書188ページ「中道実相の日本精神」において次のように説いておられます。
 「日本人は天を仰ぎ見、地を俯して見、そしてその根元に「中(みなか)」なる主を見たのであります。天に偏らず、地に偏らず、一方に偏して味方せず、中道なのであります。一方に偏るのは、武人の専制になるか、ブルジョア専制になるか、プロレタリア専制になるか、どちらにせよ、その時の権力階級のファッショになります。中道はどちらにも偏しないので、どちらをも完全に生かすのであります。すべての人を神とみてどちらをも完全に生かすとき、それが本当の民主主義になるのであります。しかし「中(みなか)」は決して悪平等ではありません。単なる悪平等は、すべてを生かすことが出来ない。「発して節(せつ)にあたる」のでなければならない。発(あらわ)れては節度おのづから整い、緩急おのづから調和し、万物栄え、万民鼓腹(こふく)するのであります。平等のみを主張して、細胞又は内臓を一平面上に置いたら有機体たる生物は存在し得ないのであります。国家も有機体であることを考えなければなりません。」
[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-05 11:19
みささぎ参拝の薦め
(2)日本の建国の理想
 我が国の始まりは、神武天皇であらせられますが、その後、歴代の天皇さまを経て、現在、第125代:平成天皇さまに至っております。歴代の天皇さまが終始一貫して求めてこられた日本国の理想は、神武天皇建国の理想[・・・・・・上(かみ)は則(すなは)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(うつくしび)に答え、下(しも)は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養いたまひし心を弘むべし。然て後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)いて宇(いへ)と為むこと、亦、可(よ)からずや。・・・・」(『日本書記』神武天皇橿原奠都(てんと)の詔勅)であります。
(現代語訳:・・・・・・上(かみ)は天神(あまつかみ)(天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)→天照大神)の国をお授けくださった御徳に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)の正しい道徳を育てられた御心を弘めよう。その後に、国の中をひとつにまとめて都を造り、国の隅々までも掩(おほ)って一つの家のようにすることは、まことに良いことではないか。)
 この理想の根源は、実は『古事記』や『日本書紀』に書かれている“神話”に発するのであり、具体的歴史の中では幾多の紆余曲折が記録されておりますが、理想への大きな流れは変わりません。この事は、後に【陵(みささぎ)】をご案内していく中で明らかになって参りましょう。
 谷口雅春先生は、御著書『限りなく日本を愛す』100~101ページに、次のように説いておられます。
 「・・・・この聖勅(みことのり)(神武天皇橿原奠都(てんと)の詔勅のこと)が歴史的事実であろうと、創造されたる神話であろうと、吾らはそれを問う必要はないのである。(中略)具体的な過去の歴史的事実は、いまだ完全に本当の「日本の精神」も「日本建国の使命」もあらわれていないのである。それはまだ現象的に時間の序列を経て成就すべき未完成の過程に過ぎなかったのである。過去の具体的な日本の歴史に如何なる欠陥があるにせよ、過去の天皇の一部に如何なる行蹟があったにせよ、それゆえにこそ神話に於いて日本の本当の精神と、日本民族を貫く理想と、将来日本の進むべき使命的方向をハッキリ探らねばならぬのであり、それに基いてこそ日本民族はより一層完全に「日本の理念」を示現する民族となり、陰陽両洋の文明を和合して世界に平和を築くべきであるのである。」
[PR]
by ikawazukbr | 2012-03-02 10:36 | 旅行記