井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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京都もみじ狩り旅行
 火災は放火のようで、なぜ、貴重な文化遺産でもあり、現在も生きている寺院を、台無しにしたのかと憤りを覚える。現在のご本尊は、平成17年の復元で極彩色である。像高255.5cmの高さから優しい“まなざし”を、私たち参拝者に投げかけておられる。ご本尊の後には、三千余体という小地蔵尊がおられる。
 建礼門院が入寺された文治元年(1185年)九月は、安徳天皇を抱き奉った二位尼と共に、壇ノ浦において入水された後なのである。何故かと云うと、入水された時に、源氏の兵士によって着物を捉まれ引き上げられたからである。さぞや、と涙を禁じえない。
 庭園は、回遊式四方正面の庭と云うそうだ。豊臣秀頼、徳川家康、淀君らが再興に尽くされている。何処を見ても美しい風景である。

 何かしら名残惜しいが、寂光院を後にして、帰路につく。予定より少し早いからと、国際会館の周囲を一回りしてくれたが、道の両側にある紅葉がたいへん美しい。が、市内のような賑やかさは無い。
 京都駅を15:50発の近鉄特急に乗車し、18:30に家に帰り着いた。
 この2日間、晴天で気温も高く、日中は歩いていると暑いくらいの日が続いた。この幸運は神様からのお恵みと、心からの感謝を捧げて休ませていただきました。
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by ikawazukbr | 2010-02-13 16:15 | 旅行記
京都もみじ狩り旅行
 寂光院は説明書によると、「寂光院は天台宗の尼寺で、山号は清香山・寺号を玉泉寺という。推古二年(594年)に聖徳太子が御父・用明天皇の菩提を弔うために建立された。本尊は、聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊であったが、平成12年5月9日の火災により損傷した。現在は(財)美術院によって復元された本尊が本堂に安置されている。初代は聖徳太子の御乳人であった玉照姫〔敏達十三年(548年)に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人で、慧善比丘尼という〕で、その後、代々高貴な家門の姫君らが法燈を守り続けた。第二代は阿波内侍、第三代の建礼門院徳子は、文治元年(1185年)九月に入寺し真如覚比丘尼となった。源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子:安徳天皇の菩提を弔い、終生をこの地で過され閑居御所とされた。」とある。
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by ikawazukbr | 2010-02-11 17:17 | 旅行記
京都もみじ狩り旅行
 寂光院前の駐車場で車を降りると、石段があり、入り口に「高倉天皇皇后徳子陵」と宮内庁の高札が立っている。高倉天皇の中宮:平徳子(平清盛の長女・建礼門院)の御陵である。建礼門院大原西陵と云い、五輪塔の仏教式御陵で、珍しい様式だそうである。石段がかなり長いようなので、入口の所で拝礼させていただいた。
 第50代;高倉天皇と中宮:平徳子の間に生まれた第一皇子が、第81代:安徳天皇(践祚1180年~退位1185年)である。安徳天皇は、平家が壇ノ浦に滅亡したとき御年8歳にして二位尼(平清盛の妻)に抱かれて、御母:徳子皇后(建礼門院)と共に入水されたのである。吉川英治の『新・平家物語』やNHK大河ドラマを記憶している方も多いと思うが、悲劇の頂点の描写である。
 少し奥にもう一つ石段がある。その石段を登ると寂光院に到るが、徳子陵と続いているようだ。
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by ikawazukbr | 2010-02-09 13:47 | 旅行記
京都もみじ狩り旅行
 ここを出て直ぐ勝林院の前に到るが、左に折れて20mくらい行って右に曲ると宝泉院がある。庭に入ると、富士山を象った五葉松の大木が眼に入ってくる。
 宝泉院は、実光院の説明のところで書いた通りである。客殿の縁側には“血天井”がある。慶長五年、関ヶ原の合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城で自刃した。その武将達の霊をなぐさめ、供養のために、自刃した場所の床板を天井にして祀ったものと云う。血が染み込んでおり、人の顔などを浮び上がらせている。
 木琴や鉄琴と同じ様式で“石盤”と云うのがあった。サヌカイトと云う石で、打ってみると澄んだ美しい音がでる。この山で採れるそうで、音律を調べるために作られたそうだ。
 客殿から見る庭園は、五葉松の大木が補修中で梯子や青いシートが掛けられていた。90°横側の庭は、バックの竹林に映える紅葉が美しかった。
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by ikawazukbr | 2010-02-07 13:23 | 旅行記