井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき17)

(33特5)聖徳太子(しょうとくたいし)の墓(天皇ではないので墓となっている)
a.御陵
 陵名=聖徳皇太子磯長(しなが)御廟(ごびょう)
 墳名=叡福寺(えいふくじ)北古墳
 陵の形=方丘(直径54.3m、高さ7.2m、横穴式石室の中央に、母の穴穂部間人
       (あなほべのまひと)皇后が、東に皇太子が、西に妃の膳部(かしわでの)
       菩岐岐美(ぼききみの)郎女(いらつめ)が葬られている)
 所在地=大阪府南河内郡太子町太子2146 叡福寺境内
 交通=近鉄南大阪線「貴志駅」下車、バス北回り「太子前」下車、すぐ

b.履歴
 御名・異称=厩戸(うまやどの)皇子(みこ)(別名=豊耳聡(とよとみみし)聖徳(ょうとく)、
         豊聡耳(とよとみみの)法(のりの)大王(おおきみ)、法主(のりのうしの)
         王(おおきみ)) (厩戸(うまやとの)豊聰耳(とよとみみの)皇子(みこ)、
         上宮(かみつみやの)厩戸(うまやとの)豊聰耳(とよとみみの)太子
         (ひつぎのみこ)と書かれているところもある。一般に聖徳太子(しょうとく
         たいし)として知られている。)
 父=用明(ようめい)天皇
 母=穴穂部間人(あなほべのまひと)皇后(こうごう)
 妃=膳部(かしわでの)菩岐岐美(ぼききみの)郎女(いらつめ)
 摂政就任=推古(すいこ)天皇元年(西暦597年)4月10日
 薨去=推古天皇29年(西暦621年)2月5日、斑鳩(いかるが)宮において薨去。

①叡福寺(えいふくじ)北古墳(聖徳太子の墓)の近くに、太子西山古墳(第30代:敏達(びたつ)天皇の陵(みささぎ))、春日向山古墳(第31代:用明(とうめい)天皇の陵)、山田高塚古墳(第33代:推古(すいこ)天皇の陵)、山田上ノ山古墳(第36代:孝徳(こうとく)天皇の陵)がある。
推古天皇28年(西暦620年)に、聖徳太子がこの地を墓所に定められた。
推古天皇29年(西暦621年)に、母の穴穂部間人皇后が没すると、ここに葬られた。同年2月5日に聖徳太子が没したが、その前日に没した妃の膳部菩岐岐美郎女と相次いだので、ここに合葬され三骨一廟となっている。

②推古天皇30年(西暦622年)、推古天皇の勅願(ちょくがん)により、太子の墓を守護と追福(ついふく)を営むために、香華寺として坊舎(ぼうしゃ)(墓守の家10軒)を建立したのが開基とされている。神亀(じんき)元年(西暦724年)に聖武(しょうむ)天皇の勅願で、太子御廟の東西に、東の伽藍を転法輪寺(てんほうりんじ)、西の伽藍を叡福寺とする、規模6町(約660m)四方に及ぶ大伽藍が建立された。その御440年を経て平重盛(たいらのしげもり)のよって堂塔の大修理が行なわれ面目を一新した。天正(てんしょう)2年(西暦1574年)織田信長の兵火ににより伽藍全部が消失した。その後、慶長(けいちょう)年間(17世紀初め)第107代:後陽成(ごようぜいぜい)天皇(在位=西暦1586~1611年)の勅願により、豊臣秀頼(秀吉の子)が聖霊殿(せいれいでん)が再建され、相次いで諸堂が再建された。
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by ikawazukbr | 2012-08-27 09:40 | 旅行記