井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき9)

⑥推古天皇の叡慮(97ページ)
 推古天皇は、第29代:欽明(きんめい)天皇の皇女であり、18歳で敏達(びたつ)天皇の皇后となられた。母は蘇我稲目の娘:堅塩姫(きたしひめ)である。従って馬子にとっては、妹の娘すなわち姪にあたる。自分の姪が皇位に登るということは、馬子にとって願ってもない好機であったに相違ない。しかし推古天皇は三度まで辞退されたと日本書紀には書かれている。未曾有の大事件の直後に皇位をふんで、誤ることなく社稷(しゃしょく)(国家)を安泰に保つということは容易ならぬ業であり、それを想いこれを憂いて叡智の限りをつくされたことであろう。
 そして日頃信愛し給うた太子とともに、ひそかに協議を重ねられたのではないかと拝察される。事態の推移、群臣の動向、馬子の性格・野望等を充分検討打合せの上、皇位につかれたのであろう。したがって即位の翌年四月、推古天皇は、厩戸皇子(うまやっどのみこ)を立てて皇太子とし、摂政とし、「依りて政(まつりごと)を録(とりふさ)ね摂(はから)しめ、万の機(まつりごと)を悉に委ねたまひき」すなわち、皇太子として摂政として、一切の政治の権限を聖徳太子に一任されたのである。それからちょうど30年間、49歳で薨去されるまで、太子は摂政皇太子として、その地位にあられたのである。これでは太子が皇位につかれたのも同然で、この間ついに馬子はその野望を現す機会を失ってしまったのである。
 ここで特記しておかねばならぬことは、推古天皇は、敏達(びたつ)天皇の皇后として、敏達天皇との間に竹田皇子(たけだのみこ)と尾張皇子(おわりのみこ)の二皇子がおられたのであるが、ご自分が産まれた皇子をさしおいて、聖徳太子(推古天皇の兄君:用明天皇の皇子で、推古天皇の甥にあたる)を皇太子に選ばれたということである。この事に肉親の愛情を超えた推古天皇の叡慮の深さと霊妙な天意のはからいに想到(そうとう)して感動せずにはいられない。或いは馬子が推古天皇を推戴したことも、馬子の知謀を超えた天意が彼をしてそのようにはからしめたのであろうか。

⑦仏法興隆をはかられた太子の意図(98ページ)
 太子が摂政として第一に着手されたのは仏法の興隆であった。(中略)太子が、まず仏法の興隆に着手されたのは何故であろうか。非常の事態に直面して最も必要なものは各人の思慮の深さ――と考えられたのではなかろうか。強硬な打開の手段は、よし探ることができたとしても、かえって狂気に油をそそぐ結果となり、混乱と恐怖と抗争の激化にしかならない。今は静かに、各人の関心を心の内奥に向け、正しい反省に導くことが第一と考えられたのではなかろうか。したがってまた三宝の興隆は、けっしていわゆる「崇仏派」の勝利を単純に肯定されたのではない。むしろ、仏法の真偽を明らかにすることによって、邪教外道ごとき蘇我氏の崇仏の欺瞞(ぎまん)の暴露(ばくろ)をはかられたのであろう。
 或いは、骨肉までが相食み、血で血を洗う非常の姿に六欲煩悩(ろくよくぼんのう)に膿み憑かれた人間の妄執のいたましさ哀れさ悲しさ醜さに、われひと共に、まず心の眼をしっかと見開きたい―――という念願であられたのであろうか。人間性にひそんでいるこの無残さ――この問題こそ、当時の太子の最大の関心事であられたのかもしれない。
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by ikawazukbr | 2012-08-03 10:26 | 旅行記