井蛙見聞録
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(33)第33代:推古天皇(つづき5)

(33特1)推古女帝と摂政の聖徳太子
①前述の第29代:欽明(きんめい)天皇は、仏教の受容に配慮され、新興勢力の蘇我氏や渡来帰化人なども活用しながら、屯倉(みやけ)(皇室領)や水陸路(すいりくじ)の整備などにも尽くされた。しかし、その後三人の皇子が第30代:敏達(びたつ)天皇・第31代:用明(ようめい)天皇・第32代:崇峻(すしゅん)天皇として皇位を継承する間に、蘇我氏が強大な権力を握るに至った。特に崇峻(すしゅん)天皇の場合、生母が蘇我(そがの)小姉君(をあねのきみ)であるが、その母后の兄の蘇我馬子(そがのうまこ)は、甥を天皇に擁立しながら、自分の意に従わないことを怒り、腹心に天皇を暗殺させる、という前代未聞の弑逆(しいぎゃく)事件まで引き起こしている。そこで、重臣たちの協議により、次の天皇に擁し立てられたのが、敏達(びたつ)天皇の皇后だった三十九歳の額田部(ぬかたべの)皇女(ひめみこ)(豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ))で、つまり第33代:推古天皇である。
 過去に、神功(じんぐう)皇后が第15代:応神(おうじん)天皇の「摂政」を務められたり、飯豊青皇女が第23代:顕宗(けんそう)天皇が即位するまで「摂位」の立場にあったが、大王(おおきみ)(天皇)として即位されたわけではない。従って、推古天皇は皇室史上初めて誕生した女帝(女性天皇)である。それが実現し得たのは、夫君(敏達(たつ)天皇)の崩御後、「天下を取らん」とした異母弟の穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)を退け、同母兄のび用(よう)明(めい)天皇と異母弟の崇(す)峻(しゅん)天皇を立てる際にも、皇太后として的確な判断と迅速な行動を示した実績が、重臣たちから評価され、信望を集めていたからである。推古天皇が、すぐれた政治的な判断力をもっておられたことは、即位四か月後(西暦593年)、他の皇子らをさしおき、甥の厩戸(うまやどの)皇子(みこ)(聖徳太子)を「皇太子」に立て、「摂政」に任じられたことである。

②ちなみに、その後の女帝は、第35代:皇極(こうぎょく)天皇・第37代:斉明(さいめい)天皇(第35代と同一人)・第41代:持統(じとう)天皇・第43代:元明(げんめい)天皇・第44代:元正(げんしょう)天皇・第46代:幸謙(こうけん)天皇・第48代:称徳(しょうとく)天皇(46代と同一人)で、推古天皇を含めて8代6人である。

③聖徳太子(しょうとくたいし)の立場は、父が女帝と同母兄の用明(ようめい)天皇であり、母が女帝の異母妹の穴穂部間人(あなほべのはしひとの)皇女(ひめみこ)であって、その両親とも蘇我氏の血を引いていたのみならず、まもなく蘇我馬子(そがのうまこ)の娘の刀自古郎女(とじこいらつめ)を妃に迎えている。このように、推古女帝とも蘇我氏とも密接な関係にあり、その双方から全幅の信頼を得ることができた。
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by ikawazukbr | 2012-07-20 10:00 | 旅行記