井蛙見聞録
ikawazukbr.exblog.jp

井の中の蛙見聞録
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
みささぎ参拝の薦め
(33)推古(すいこ)天皇(つづき3)

⑪推古天皇13年(西暦605年)4月、天皇は、皇太子・大臣・諸王。諸臣に詔して共に請願を立て、始めて銅(あかがね)と繡(ぬいもの)との1丈6尺の仏像を、各一軀(ひとはしら)造り始めた。鞍作鳥(くらつくりのとり)を造仏の工(たくみ)に任じた。高麗(こまの)国の大興王(だいこうおう)は、これを聞かれて黄金(こがね)三百両を奉った。14年(西暦606年)4月、銅と繡の丈6の仏像が完成した。銅の仏像は元興寺(がんこうじ)(飛鳥寺)にお祀りし、齊会を行った。

⑫推古天皇14年(西暦607年)5月、天皇は、皇太子を招き勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜしめられた。また皇太子は、法華経(ほけきょう)を岡本宮(おかもとのみや)で講じられた。天皇はたいへん喜ばれた。しかし神祇を忘れたのではなく、15年(西暦608年)2月には「古来、わが皇祖の天皇たちが、世を治めたもうのに慎んで厚く神祇を敬まわれ、天神(てんしん)地祇(ちぎ)をお祀りし、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々の御業も順調に行われた。今わが代においても神祇の祭祀を怠ることがあってはならぬ。群臣は心を尽して、よく神祇を拝するようにせよ」と申されている。

⑬推古天皇15年(西暦607年)7月、大礼(だいらい):小野臣(おののおみ)妹子(いもこ)を大唐(もろこし)(隋(ずい)の国)に遣わした。世に云う「遣隋使(けんずいし)」である。翌年4月、小野妹子が帰った。共に大唐の使人:裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)12人が来た。客人たちをもてなし、隋の国の皇帝からの書や進物が届けられた。15年(西暦607年)9月、裴世清らが帰ることになった。小野妹子を大使として再び遣わされた。この時の隋の皇帝にあてた書が、あの有名な「「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。・・・・・・云々」の文書である。
 このとき、勉学のため8人の学徒を遣わした。この年、新羅(しらぎ)の人が多く帰化してきた。

⑭推古天皇18年(西暦610年)3月、高麗(こま)王が僧:曇徴(どんちょう)・法定(ほうじょう)らをたてまつった。

⑮推古天皇28年(西暦620年)12月、皇太子と馬子大臣が相謀って、天皇記および国記(こにつふみ)、臣・連・伴造・国造・その外多くの部民・公民らの本記を記録した。
[PR]
by ikawazukbr | 2012-07-17 10:00 | 旅行記