井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(33)推古天皇(つづき2)

⑥推古(すいこ)天皇8年(西暦600年)2月、新羅(しらぎ)と任那(みなま)の間に戦が勃発した。天皇は、任那を助けようと兵を出した。両国に使いを遣わして、両国に和議が成立したかに見えたが、新羅は任那を犯した。9年(西暦601年)3月、高麗(こま)と百済(くだら)に働きかけて、任那を助け新羅を討とうとされた。来目皇子(くめのみこ)(聖徳太子の同母弟)を新羅討伐の将軍に任命された。来目皇子は、筑紫に至って戦の準備に入ったが、病に掛かり役目を果たせなくなった。11年(西暦603年)2月に薨去(こうきょ)された。墓は、河内の埴生(はにゅう)山の崗の上(大阪府羽曳野市埴生野、第22代:清寧(せいねい)天皇と第24代:仁賢(にんけん)天皇の陵(みささぎ)の近く)にある。
 改めて来目皇子の兄:当摩(たぎまの)皇子(みこ)を将軍に任じたが、明石に着いたとき従っていた妻の舎人姫(とねりのひめの)君(きみ)が薨去した。ついに新羅の討伐は中止になった。

⑦推古天皇10年(西暦602年)10月、百済から僧:観勒(かんろく)が来て、暦の本、天文地理の本、遁甲(どんこう)方術(占星術と占い術)の本を献上した。陽胡史(やどのふびと)の祖:玉陳(たまふる)は暦法を、大伴(おおともの)村主(すぐり)高聡(こうそう)は天文・遁甲(どんこう)を、山背臣(やましろのおみ)日立(ひたて)は方術を学んで、業を遂げた。高麗(こま)の僧:僧隆(そうりゅう)・雲聡(うんそう)が来日し帰化した。

⑧推古天皇11年(西暦603年)11月、皇太子は諸大夫(まえつきみたち)に「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏をお祀りする者はいないか」と云われた。秦造(はたのみやつこ)河勝(かわかつ)が進んで「臣がお祀りしましよう」と申し出た。河勝は仏像を頂いて蜂岡寺(はちおかてら)(現在の広隆寺(こうりゅうじ))を造った。

⑨冠位(かんい)十二階(じゅうにかい)を、推古天皇11年(西暦603年)12月に施行、12年(西暦604年)1月1日に冠位を諸臣に賜り、それぞれ位づけされた。大徳(だいとく)、小徳(しょうとく)、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいれい)、小礼(しょうれい)、大信(だいしん)、小信(しょうしん)、大義(だいぎ)、小義(しょうぎ)、大智(だいち)、小智(しょうち)の十二階である。更に冠の色を、錦(にしき)・青・赤・黄・白・黒に分けて位階(いかい)を示すことになった。

⑩推古天皇12年(西暦604年)4月3日、皇太子は初めて自から作られた十七条憲法を発表された。9月に朝廷の礼法を改められた。

『和を以て貴しと為し、伴う無きを宗と為よ』から始まる、十七条憲法について詳細を知りたい方は、インターネットで検索してお読みください。
また、条文は後の30~33ページにも掲載してあります。
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by ikawazukbr | 2012-07-16 11:35 | 旅行記