井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(32)第32代:崇峻(すしゅん)天皇(つづき)

c.主な出来事
①用明(ようめい)天皇2年(西暦587年)4月、用明天皇が崩御されたとき、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)は、初めは穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)を天皇にしようと考えていたが、この時は心変わりしていた。

②用明天皇2年(西暦587年)6月、炊屋姫(かしきやひめの)を奉じた蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)は、軍兵を出して穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)の宮を囲み殺した。宅部(やかべの)皇子(みこ)(宣化(せんか)天皇の皇子)も心通じているとして殺した。

③用明天皇2年(西暦587年)7月、蘇我(そがの)馬子宿禰(うまこすくね)大臣は、諸皇子と群臣を集めて、物部守屋(もののべのもりや)大連(おおむらじ)を滅ぼそうと謀った。蘇我の軍勢は、守屋の館を囲み攻めたてたが、物部の軍勢も強く蘇我の軍勢は三度も退却した。
 蘇我の軍勢の後に従っていた厩戸(うまやどの)皇子(みこ)は、急いで四天皇(してんのう)の像を作り束髪(そくはつ)の上に乗せ、「もし自分を勝たせて下さったら、必ず護世四王(ごぜしおう)の寺院を建てましょう」と誓いを立てて云われた。蘇我馬子宿禰も「寺院を建て三宝を広めます」と誓われた。そして武備を整え進撃し、物部の軍勢を撃ち破り物部守屋大連を殺した。乱が収まってから、摂津国(せっつのくに)に四天王寺(してんのうじ)をに造り、蘇我大臣は請願の通り、飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺(あすかでら))を建てた。

④崇峻(すしゅん)天皇元年(西暦587年)3月、百済(くだら)が使いをに遣わして、仏舎利(ぶっしゃり)を献上した。また百済国は、使いをに遣わして調(みつぎ)を献上し、同時に仏舎利(ぶっしゃり)と僧:聆照(りょうしょう)、律師(りつし)・令威(りょうい)・恵衆(えしゅう)・恵宿(えしゅく)・道巌(どうごん)・両開(りょうけ)らと、寺院建築工:太良(たら)未太(みだ)・文賈(もんけ)古子(こし)・鑢盤(ろばんの)博士(はかせ)の将徳白昧(しょうとくはくまい)淳(じゅん)・瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)・楊貴文(ようくいもん)・掕貴文(りょうくいもん)・昔麻帯弥(しゃくまたいみ)・画工(えたくみ)白加(びゃくか)を奉った。蘇我馬子宿禰は、百済の僧たちに受戒(じゅかい)の法を請い、以前から仏法に帰依し法会(ほうえ)に当っていた善信尼(ぜんしんに)らを、百済の使い恩卒首信(おんそつすしん)らにつけて、学問をさせるために出発させた。そして飛鳥に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺(あすかでら))を造った。

⑤崇峻(すしゅん)天皇3年(西暦590年)3月、善信尼(っぜんしんに)らが百済から帰り桜井寺に住んだ。この年、出家した尼は、貴人だけで12人を超えた。

⑥崇峻(すしゅん)天皇5年(西暦592年)10月、猪(いのしし)を奉る者があった。天皇は猪を見て「いつの日かこの猪の首を斬るように、自分が難いと思っている人を斬りたいものだ」と云われた。蘇我馬子宿禰は、この言葉を聞いて、また朝廷で武器を集めることが、いつもと違っているように思えて、天皇が自分を嫌っていると思ってしまい、天皇を弑(しい)することを謀(はか)った。部下を使って5年(西暦592年)11月3日に天皇を弑したてまつった。
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by ikawazukbr | 2012-07-09 17:34 | 旅行記