井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(30)第30代:敏達(びたつ)天皇(つづき)

c.主な出来事
①新羅(しらぎ)(高句麗(こうくり))を制して、百済(くだら)を頼んで、任那(みなま)を復興しょうとされていたが、思うようには進展しなかった。

②敏達天皇3年(西暦574年11月、新羅(しらぎ)が調(みつぎ)をたてまつった。
 敏達天皇4年(西暦575年2月、新羅が調をたてまつった。
 敏達天皇4年(西暦575年6月、新羅が調をたてまつった。
 敏達天皇6年(西暦577年11月、百済(くだら)が経論(きょうろん)若干と律子(りつし)、禅師(ぜんし)、比丘尼(びくに)、呪禁師(じゅこんのはかせ)、造仏工(ほとけつくるたくみ)、造寺工(てらつくるたくみ)の六人を献上してきた。
 敏達天皇7年(西暦578年3月、新羅が調をたてまつり、仏像も送ってきた。
 敏達天皇9年(西暦580年6月、11年(西暦582年10月と続けて、新羅が調をたてまつったが、納められず返された。

③敏達天皇13年(西暦584年9月、百済(くだら)から、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の石像一体と別の仏像一体を持ってきた。蘇我馬子(そがのうまこ)がその二体を請い受けて仏法に帰依した。仏殿を造り安置し、尼僧に供養させた。法会(ほうえ)のとき仏舎利(ぶつしゃり)が見つかった。
塔を建て法斎(ほうさい)を行い、塔の心柱の下におさめた。蘇我大臣馬子宿禰(そがのおおおみうまこのすくね)を初めとして、仏法を修業する人が増えていった。

④敏達天皇14年(西暦585年3月、物部(もののべの)弓削(ゆげの)守屋(もりやの)大連(おおむらじ)と中臣(なかとみの)勝海(かつみの)太夫(まえつきみ)が奏上して、「欽明(きんめい)天皇より陛下の代に至るまで、疫病が流行し、国民も死に絶えそうなのは、蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありません」と云った。天皇は「これは明白である。早速、仏法をやめよ」と申された。物部弓削守屋大連は自ら寺に赴(おもむ)き、塔を伐り倒させ、火をつけて焼いた。同時に仏像と仏殿も焼いた。焼け残った仏像は、難波の堀江に捨てさせた。疱瘡(ほうそう)にかかり死ぬ者が多くなった。自分の病が長いこと良くならない蘇我大臣馬子宿禰は、仏法の復活を天皇に願い出るが、「お前一人だけに許す。他の人に広めてはならない」と申された。改めて寺院を造り、仏像を迎え入れて、供養した。蘇我大臣馬子宿禰と物部弓削守屋大連との仲違いが大きくなった。
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by ikawazukbr | 2012-07-03 16:32 | 旅行記