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みささぎ参拝の薦め
2012年 06月 30日
(29)第29代:欽明(めい)天皇(つづき)
②仏教を慎重に受容した欽明(きんめい)天皇 仏教が百済(くだら)から日本へ公式に伝来したのは、欽明(きんめい)天皇7年(西暦538年)である。百済の聖明(せいめい)王(在位:西暦523~554年)が仏像と経典を献り、「この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)(儒教の始祖)も知ることができませんでした。・・・・帝(みかど)(日本)に伝え奉ります。国内に流通させてください」と推奨してきた。 それに対して、欽明天皇は、妙なる仏教の到来を喜びながら、重臣たちに「百済の献れる仏のお顔は端麗の美を備えておられ、全く未曾有のものである。これを祀るべきかどうであろう」と意見を求められた。 すると、新興勢力の蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)は直ちに賛意を表した。しかし、古参の物部(もののべの)大連(おおむらじ)尾輿(おこし)・中臣連(なかとみのむらじ)鎌子(かまこ)は、従来「わが国家(みかど)の天下に王(おおきみ)とましますのは、恒に天地社稷(しゃしょく)の百八十神(ももやそかみ)を以て春夏秋冬に祭拝(まつり)したまうからであり、今後、改めて蕃神(となりかみ)(仏)を拝みたまえば、恐らく国神(くにつかみ)の怒りをうけることになるでしょう」と反対を唱えています。 そこで天皇は、即決を避けられ、とりあえず仏像などを蘇我(そがの)大臣(おおおみ)稲目(いなめ)に 対して「試みに礼拝するよう」に指示された。古来の神衹(じんき)祭祀(さいし)を主催して来られた天皇は、外来の仏教に感心しても、その受容には慎重を期されたのである。すると、しばらくして国内に疫病が流行し、多くの人々が病死した。そのため、物部(もののべの)尾輿(おこし)らの反対派の奏請により、「仏像を難波の堀江に流し捨て、また火を伽藍(寺)に火を付け焼き尽くす」に至った。一方、蘇我氏のほうでも仏教だけを信仰したわけではなく、例えば、西暦555年、百済の聖明王が新羅(しらぎ)と戦って遂に殺されたことを知らせてきた王子恵(けい)に対し、「初め国を建てられた神、即ち天より降り来まして国家(日本)を造り立てられた神である。汝が国(百済)は、これを啜(す)てて祀らずにいたので今日のようになったのである。まさに今、前の過ちを悛(あらた)め悔いて、神の宮を修い理(おさ)め、神の霊を請い招いてお祈りしたならば、国は栄えるだろう」と、むしろ神祭を励行するように諭しておられる。
by ikawazukbr
| 2012-06-30 17:29
| 旅行記
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