カテゴリ
以前の記事
2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
みささぎ参拝の薦め
2012年 06月 22日
(26)第26代:継体(けいたい)天皇
(男大迹(おおどの)天皇(すめらみこと)) a.御陵 陵名=三嶋(みしまの)藍野(あいの)陵(みささぎ) 墳名=太田茶臼山古墳 陵の形=前方後円・堀 所在地=大阪府茨木市太田三丁目 交通=JR東海道本線・JR京都線「摂津富田駅」げしゃ、西ヘ600m 阪急電車「茨木氏駅」下車、近鉄バス「太田」下車、東へ300m b.履歴 御名・異称=男大迹(おおどの)尊(みこと)・彦太(びこふとの)尊(みこと) (応神天皇の五世孫) 父=彦主人(ひこうしの)王(おおきみ)(応神天皇の四世孫) 母=三国振媛(みくにのふりひめの)命(みこと)(垂仁天皇の七世孫) 皇后=手白髪(たしらかの)皇女(ひめみこ) 妃=①尾張(おわりの)目子媛(めのこひめ)、②稚子媛(わかこひめ)、③広媛(ひろひめ)、 ④麻績娘子(おみのいらつめ)、⑤茨田関媛(まむたのたせきひめ)、 ⑥倭媛(やまとひめ)、⑦荑媛(はえひめ)、⑧広媛(ひろひめ) 皇子女=皇后→天国(あめくに)拝開(おしはらき)広庭(ひろにわの)尊(みこと) (後の欽明(きんめい)天皇) ①→広国押(ひろくにおし)武金日(ぶかかなひの)尊(後の安閑天皇)、 武小(たけお)広国押楯(ひろくにおしたての)尊、(後の宣化天皇)、 ②→大郎(おおいらつこの)皇子(みこ)、出雲(いずもの)皇女(ひめみこ) ③→神前(かむさきの)皇女(ひめみこ)、茨田(まむたの)皇女(ひめみこ)、 馬来田(うまくたの)皇女(ひめみこ)、 ④→荳角(きさげの)皇女(ひめみこ)(斎王) ⑤→茨田(まむたの)大郎(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、 白坂(しらさか)活日姫(いくひひめの)皇女(ひめみこ)、 小野稚娘(おののわかいらつめの)皇女(ひめみこ) ⑥→大郎子(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、椀子(まろこの)皇子(みこ)、 耳(みみの)皇子(みこ)、赤姫(あかひめの)皇女(ひめみこ) ⑦→稚綾姫(わかやひめの)皇女(ひめみこ)、円娘(つぶらいらつめの)皇女、 厚(あつの)皇子(みこ) ⑧→莵(うさぎの)皇子(みこ)、中皇子(なかつみこ) 誕生=允恭(いんきょう)天皇39年(西暦450年) 立太子=―――― 即位=継体(けいたい)天皇元年(西暦507年)2月4日 崩御=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日 在位年数=25年 年齢=82歳 年号=――― 皇居=樟葉宮(くずばのみや)(大阪府枚方市楠葉) 筒城宮(つつきのみや)(京都府綴喜群田辺町多々羅) 弟国宮(おとくにのみや)(京都府京都市右京区大原町) 磐余(いわれの)玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市池之内) c.主な出来事 ①皇統の断絶を救った第26代:継体(けいたい)天皇 第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇は、西暦479年に崩御された。後を継がれたのは、白髪皇子と称された第22代:清寧(せいねい)天皇であるが、病弱のため御子がおられなかった。そこで、皇統のつながる血縁者を各地に探し求めたところ、清寧(せいねい)天皇の再従兄弟(またいとこ)にあたる二人の皇子が、播磨(兵庫県)に隠れ住んでいた。雄略(ゆうりゃく)天皇に殺された市辺押磐(いちべのおしいわの)皇子(みこ)の遺児である億計(おけの)王(みこ)と弘計(をけの)王(みこ)である。 先に弟の弘計(をけの)王(みこ)が即位され、第23代:顕宗(けんそう)天皇となられるが在位わずか2年半で崩御された。そこで、兄の億計(おけの)王(みこ)が即位され、第24代:仁賢(にんけん)天皇となられる。その長男の小泊瀬(をはつせの)皇子(みこ)が即位され、第25代:武烈(ぶれつ)天皇となられ、8年在位されたが皇子(みこ)がなかった。 この武烈(ぶれつ)天皇が西暦506年に崩御されたとき、皇位継承者が無く、皇位が断絶する危機に立ち至った。近従の臣達が相談して、越前の三国(みくに)におられた第15代:応神(おうじん)天皇の五世孫であるお男大迹(おおどの)尊(みこと)を探しだした。その王は諸臣の要請を入れ,まもなく践祚なされ、第26代:継体(けいたい)天皇となられた。 ②継体(けいたい)天皇6元年(西暦513年)12月、百済(くだら)が、任那(みなま)の上哆唎(おこしたり)、、下哆唎(あめしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しいと願い出た。天皇はこれを与えた。 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)6月、百済(くだら)が、五経博士:段楊爾(だんように)を奉った。別に「伴跛(はへ)の国が、百済(くだら)の己汶(こもん)の領土を奪いました。天皇によって元通りになるよう、お取り計らいいただきますようお願い致します」と上奏(じょうそう)した。 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)11月、百済(くだら)の将軍が、新羅(しらぎ)・安羅(あら)・伴跛(はへ)の将軍を召しつれて来朝し、天皇から己汶(こもん)・滯沙(たさ)を百済(くだら)の国に賜った。 この頃、百済(くだら)の国の近隣は、伴跛(はへ)の国、新羅(しらぎ)の国、任那(みまな)の国(日本府)等入り乱れての争乱が続いた時代であった。
by ikawazukbr
| 2012-06-22 16:32
| 旅行記
|