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井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録

by ikawazukbr
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みささぎ参拝の薦め
(26)第26代:継体(けいたい)天皇
    (男大迹(おおどの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=三嶋(みしまの)藍野(あいの)陵(みささぎ)
 墳名=太田茶臼山古墳
 陵の形=前方後円・堀
 所在地=大阪府茨木市太田三丁目
 交通=JR東海道本線・JR京都線「摂津富田駅」げしゃ、西ヘ600m
      阪急電車「茨木氏駅」下車、近鉄バス「太田」下車、東へ300m

b.履歴
 御名・異称=男大迹(おおどの)尊(みこと)・彦太(びこふとの)尊(みこと)
          (応神天皇の五世孫)
 父=彦主人(ひこうしの)王(おおきみ)(応神天皇の四世孫)
 母=三国振媛(みくにのふりひめの)命(みこと)(垂仁天皇の七世孫)
 皇后=手白髪(たしらかの)皇女(ひめみこ)
 妃=①尾張(おわりの)目子媛(めのこひめ)、②稚子媛(わかこひめ)、③広媛(ひろひめ)、
    ④麻績娘子(おみのいらつめ)、⑤茨田関媛(まむたのたせきひめ)、
    ⑥倭媛(やまとひめ)、⑦荑媛(はえひめ)、⑧広媛(ひろひめ)
 皇子女=皇后→天国(あめくに)拝開(おしはらき)広庭(ひろにわの)尊(みこと)
            (後の欽明(きんめい)天皇)
       ①→広国押(ひろくにおし)武金日(ぶかかなひの)尊(後の安閑天皇)、
          武小(たけお)広国押楯(ひろくにおしたての)尊、(後の宣化天皇)、
       ②→大郎(おおいらつこの)皇子(みこ)、出雲(いずもの)皇女(ひめみこ)
       ③→神前(かむさきの)皇女(ひめみこ)、茨田(まむたの)皇女(ひめみこ)、
          馬来田(うまくたの)皇女(ひめみこ)、
       ④→荳角(きさげの)皇女(ひめみこ)(斎王)
       ⑤→茨田(まむたの)大郎(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、
          白坂(しらさか)活日姫(いくひひめの)皇女(ひめみこ)、
          小野稚娘(おののわかいらつめの)皇女(ひめみこ)
       ⑥→大郎子(おおいらつこの)皇女(ひめみこ)、椀子(まろこの)皇子(みこ)、
          耳(みみの)皇子(みこ)、赤姫(あかひめの)皇女(ひめみこ)
       ⑦→稚綾姫(わかやひめの)皇女(ひめみこ)、円娘(つぶらいらつめの)皇女、
          厚(あつの)皇子(みこ)
       ⑧→莵(うさぎの)皇子(みこ)、中皇子(なかつみこ)
 誕生=允恭(いんきょう)天皇39年(西暦450年)
 立太子=――――
 即位=継体(けいたい)天皇元年(西暦507年)2月4日
 崩御=継体(けいたい)天皇25年(西暦531年)2月7日
 在位年数=25年
 年齢=82歳
 年号=―――
 皇居=樟葉宮(くずばのみや)(大阪府枚方市楠葉)
      筒城宮(つつきのみや)(京都府綴喜群田辺町多々羅)
      弟国宮(おとくにのみや)(京都府京都市右京区大原町)
      磐余(いわれの)玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市池之内)

c.主な出来事
①皇統の断絶を救った第26代:継体(けいたい)天皇
 第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇は、西暦479年に崩御された。後を継がれたのは、白髪皇子と称された第22代:清寧(せいねい)天皇であるが、病弱のため御子がおられなかった。そこで、皇統のつながる血縁者を各地に探し求めたところ、清寧(せいねい)天皇の再従兄弟(またいとこ)にあたる二人の皇子が、播磨(兵庫県)に隠れ住んでいた。雄略(ゆうりゃく)天皇に殺された市辺押磐(いちべのおしいわの)皇子(みこ)の遺児である億計(おけの)王(みこ)と弘計(をけの)王(みこ)である。
 先に弟の弘計(をけの)王(みこ)が即位され、第23代:顕宗(けんそう)天皇となられるが在位わずか2年半で崩御された。そこで、兄の億計(おけの)王(みこ)が即位され、第24代:仁賢(にんけん)天皇となられる。その長男の小泊瀬(をはつせの)皇子(みこ)が即位され、第25代:武烈(ぶれつ)天皇となられ、8年在位されたが皇子(みこ)がなかった。
 この武烈(ぶれつ)天皇が西暦506年に崩御されたとき、皇位継承者が無く、皇位が断絶する危機に立ち至った。近従の臣達が相談して、越前の三国(みくに)におられた第15代:応神(おうじん)天皇の五世孫であるお男大迹(おおどの)尊(みこと)を探しだした。その王は諸臣の要請を入れ,まもなく践祚なされ、第26代:継体(けいたい)天皇となられた。

②継体(けいたい)天皇6元年(西暦513年)12月、百済(くだら)が、任那(みなま)の上哆唎(おこしたり)、、下哆唎(あめしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県を欲しいと願い出た。天皇はこれを与えた。
 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)6月、百済(くだら)が、五経博士:段楊爾(だんように)を奉った。別に「伴跛(はへ)の国が、百済(くだら)の己汶(こもん)の領土を奪いました。天皇によって元通りになるよう、お取り計らいいただきますようお願い致します」と上奏(じょうそう)した。
 継体(けいたい)天皇7元年(西暦514年)11月、百済(くだら)の将軍が、新羅(しらぎ)・安羅(あら)・伴跛(はへ)の将軍を召しつれて来朝し、天皇から己汶(こもん)・滯沙(たさ)を百済(くだら)の国に賜った。
 この頃、百済(くだら)の国の近隣は、伴跛(はへ)の国、新羅(しらぎ)の国、任那(みまな)の国(日本府)等入り乱れての争乱が続いた時代であった。
by ikawazukbr | 2012-06-22 16:32 | 旅行記