井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(23)第23代:顕宗(けんぞう)天皇(引計(をけの)天皇(すめらみこと))

a.御陵
  陵名=傍丘(かたおかの)磐坯丘南(いわつきのおかのみなみの)陵(みささぎ)
 墳名=
 陵の形=前方後円
 所在地=奈良県香芝市北今市
 交通=近鉄大阪線「下田駅」下車、北へ500m

顕宗(けんぞう)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第25代:武烈(ぶれつ) 天皇(てんのう)(小泊瀬(おはつせの)稚鷦鷯(わかさざきの)
 天皇(すめらみこと))=傍丘磐坏(かたおかのいわつきの)丘北(おかのきたの)北陵

b.履歴
 御名・異称=来目稚子(くめのわくご)・引計(をけの)尊(みこと)(履中(りちゅう)天皇の孫)
 父=市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)(履中(りちゅう)天皇の御子)
 母=荑媛(はえひめの)命(みこと)
 備考:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)と荑媛(はえひめの)の御子は、
     ①入夏媛(いなつひめ)、②億計王(くけのみこ)(別名:嶋稚子(しまのわくご)・
     大石(おおいしの)尊(みこと))、③弘計王(をけのみこ)(別名:来目稚子
     (くめのわくご))、④飯豊青(いいとよのあおの)女王(ひめみこ)(別名:忍海部
     (おしぬべの)女王)、⑤橘王(たちばなのみこ)の5人である。
 皇后=難波(なにわの)小野王(おののおおきみ)(允恭(いんきょう)天皇の曽孫、
      磐城王(いわきのみこ)の孫、丘稚子王(おかのわくこのみこ)の娘)
 皇子女=なし
 誕生=允(いん)恭(きょう)天皇39年(西暦450年)
 立太子=――――
 即位=顕宗(けんぞう)天皇元年(西暦485年)正月1日
 崩御=顕宗(けんぞう)天皇3年(西暦487年)4月25日
 在位年数=3年
 年齢=38歳
 年号=―――
 皇居=近飛鳥(ちかつあすかの)八釣宮(やつりのみや)(奈良県高市郡明日香村八釣)

c.主な出来事
①安康(あんこう)天皇3年(西暦456年)10月、父:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)は雄略(ゆうりゃく)天皇に殺されている。このため億計王(くけのみこ)、・弘計王(をけのみこ)らは逃げ隠れていた。播磨(はりまの)国の明石群でたまたま夜通しの酒宴になった折に身分を明かすことになった。

②皇太子であった億計王は、皇位を弘計王に譲ろうとされ、なかなか位につかれなかった。このため姉の飯豊青女王が、忍海角(おしぬみの)角刺宮(つのさしのみや)で朝政をなされた。

③ようやく顕宗(けんぞう)天皇元年(西暦485年)正月1日に即位。父:市辺押磐(いちのへのおしいわの)皇子(みこ)は難にあわれ、遺骸を埋めた場所も解らなかった。老婆:置目(おきめ)が「知っていると」と申し出たので、置目に案内されて行き掘り返してみると、お骨があったが、お傍にいた舎人(とねり)の骨と入り混じっており、見分けられなかった。そこで二っの陵を同じように造り、葬儀も同じようにされた。

④顕宗天皇2年(西暦486年)3月、顕宗天皇は、億計(おけ)皇太子に向い「雄略天皇への復讐のお想いが消えない。雄略天皇の墓を壊して仕返しをしたい」と申された。億計皇太子は、「雄略天皇は万機を統べて天下に照覧された。人みな喜び仰いだのである。わが父は天皇の子であるが天位に昇らなかった。そこに尊卑が異なって顕われている。私たちは清寧(せいねい)天皇(雄略天皇の御子)厚い寵愛と御恩を受けたので今日があるのではないか。雄略天皇が国を治められた徳行は天下に聞こえている。陵を壊しては、国に臨み人民を子とすることは出来ないだろう」と申された。顕宗天皇は「良いことを言ってくれた」と申され止められた。
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by ikawazukbr | 2012-06-15 18:08 | 旅行記