井蛙見聞録
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(21つづき)第21代:雄略天皇(つづき)

 中国南朝の『宋書』東夷伝(とういでん):倭国条(わこくじょう)に(宋は西暦420~479年)「讃(さん)・珍(ちん)・済(さい)・興(こう)・武(ぶ)」の五人が「倭王(わおう)」として記されている。
 この五人は、田中卓博士によって『古事記』・『日本書紀』と照合され、次のように比定されている。
 「讃(さん)王」とは、第16代:仁徳(にんとく)天皇(西暦313~399年)で、大阪平野の開発に努められ、西暦412年、中国南朝の宋(そう)の武帝(ぶてい)に使節を送っておられる。
 「珍(ちん)王」とは、第18代:反正(はんせい)天皇(西暦406~410年)で、河内の丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)(松原市)に王宮を遷し、西暦438年、倭の「珍(ちん)王」として宋(そう)の文帝(ぶんてい)に使節を遣わしておられる。
備考:
 「讃(さん)王」(第16代:仁徳(にんとく)天皇(西暦313~399年))と「珍(ちん)王」(第18代:反正(はんせ  い)天皇(西暦406~410年))の間には、第17代:履中(りちゅう)天皇(西暦400~405年)がおられる  が、履中(りちゅう)天皇の御在位6年、反正(はんせい)天皇の御在位5年といずれも短い。

 「済(さい)王」とは、第19代:允恭(いんきょう)天皇(西暦412~453年)で、大和の遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)に王宮を遷し、西暦451年、宋(そう)から済(さい)王として「使持節都督倭、新羅(しらぎ)・任那(にんな)・加羅(から)・秦(しん)韓(かん)・慕韓(ぼから)、六国諸軍事、安東大将軍」の称号を授けられている。
 「興(こう)王」とは、第20代:安康(あんこう)天皇(西暦453~456年)で、西暦462年、宋(そう)の孝武帝(こうぶてい)からは「安東将軍」の称号しか認められていない。
 「武(ぶ)王」とは、第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇(西暦456~479年)で、泊瀬(はつせ)(桜井市長谷)の朝倉宮(あさくらのみや)に王宮を遷して、内政も外交も積極的に進められた。御名を「若建(わかたける)」・「稚武(わかたける)」と称する。埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄刀(てつとう)に、金で象崁(しょうかん)された115文字の和風漢文体の銘文が刻まれており、その中に「猨加多支鹵(わかたける)大王(おほきみ)」とあり、これが雄略天皇のお名前と一致することが、田中卓博士によって証明されている。
備考:
 この鉄刀は、昭和43年8月に稲荷山古墳から出土し、そのまま展示されていた。錆が進んで来たので永久保存の処理をするため、奈良県の元興寺の文化財研究所に昭和53年5月に送られて来た。
 女子研究員:大崎敏子氏が金泥粒(きんでいりゅう)に気付いたのが7月末であり、工業用レントゲン装置でエックス線を当てたところ銘文を発見、9月11日に115文字を確認した。
 昭和53年9月19日の毎日新聞:夕刊で大スクープとなった。
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by ikawazukbr | 2012-06-13 09:51 | 旅行記