井蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(21つづき)第21代:雄略天皇(つづき)

◎21代:雄略天皇の内政・外交
 雄略天皇は、恐ろしいほど気性の激しい方だったとも伝えられている。前帝の第20代:安康(あんこう)天皇が眉輪王(まやわのおうきみ)のために殺害された。それを知った弟の雄略天皇は、眉輪王だけでなく、その弑逆(しいぎゃく)に同調していると疑われた他の兄たちも皆殺しにしている。そのうえ「誤りて人を殺すこと衆(おお)き」ことが知れわたり、天下の人々から「大(はなはだ)だ悪しき天皇なり」と非難されたと書かれている。
 しかし、同時に愛情こまやかな面も有する天皇であったことは、『万葉集』卷一の冒頭に掲げられている「大泊瀬(おおはつせの)稚武(わかたけの)天皇(すめらみこと)」の「こもよ みこもち ・・・・・・ 」の御製からも窺(うか)がわれる。(別紙参照:『万葉集』卷一)
 また、「⑤葛城(かつらぎ)の一言主(ひとことぬしの)大神(おほかみ)」の項に見えるように、このことを知った人々から「徳まします天皇なり」と称賛されたという。
 内政上の事績では、葛城氏などと手を組んで、積極的に勢力を伸ばし、また、機織(はたおり)の巧みな秦氏(はたし)を集めて「太秦(うずまさ)」の姓を賜わり、製陶に長じた土師氏(はじし)を集めて「贄土(にえの)師部(はじべ)」をつくるなど、生産力の集中に努めて国家財政を充実させ、初めて「大蔵(おおくら)」を設けた。
 豊受大神が外宮に祭られたのもこの時代である。

 一方、外交面においては、日本に背いた新羅(しらぎ)を何度も攻めたが成功するに至らなかった。ただ、高句麗(こうくり)の侵入によって一旦滅びた「百済(くだら)」には、求められて救援に乗り出し、その再興を助けている。更に、中国南朝の昇明二年(西暦478)、宋(そう)に使節を送り、高句麗(こうくり)を除く朝鮮南部諸国に対する日本の優位を認めてもらおうとした。宋の順帝(じゅんてい)から改めて「使持節都督倭、新羅(しらぎ)・任那(にんな)・加羅(から)・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼから)、六国諸軍事、安東大将軍倭王」という高い称号を授けられている。
 このとき、倭王武から宋の順帝あてに奉った上表文は、堂々たる漢文で記されており、後の聖徳太子(しょうとくたいし)の上表文の如く高い意気を感じさせるものであった。(『宋書(そうしょ)』に書かれている)
 この当時の中国は、高度な文字文明を持っており、東アジア世界の最先進国と自負して、周辺の国々を未開な・東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狭(ほくてき)・と見下す“中華”意識が強く、現代にも影を写している。
 この中華帝国は、秦(しん)(西暦前247~前207年)・漢(かん)(西暦前206~220年)の昔から周辺の国々に文物を朝貢させ、官位などを授与して勢力下に置く“華夷(かい)体制”を形づくって来た。日本列島(特に九州)の小さな国々(後の都に相当)も、早くからそのような体制に組み込まれていた。西暦57年、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)から倭の汝国(ぬこく)(福岡県那珂郡あたり)の国王に授けられた金印に「漢委(かんのわの)汝国王(ぬこくおう)」とあり、また、三国時代の西暦239年、魏(ぎ)の明帝(みんてい)から邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)に賜った称号は「親魏(しんぎ)倭王(わおう)」と書かれている。九州から早く出て畿内へ遷った大和の王権も、その王権により統一されていく日本全体も、中国からは東夷の「倭国(わこく)」と称されている。その中心に立つ大王(おほきみ)(後に天皇)は、中国皇帝に朝貢して「倭王」の地位を認めてもらうことが、外交の要諦であった。
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by ikawazukbr | 2012-06-12 09:27 | 旅行記