井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(21)第21代:雄略(ゆうりゃく)天皇(つづき)

⑤雄略天皇4年(西暦460年)2月、葛城山に狩りにお出でになった。突然長身の人が出現したが、その人は一事主神(ひとことぬしのかみ)であった。共に狩りをし仲むつまじく過ごされ、人々はみな「天皇は徳のあるお方である」と評したという。

⑥雄略天皇4年(西暦460年)8月、吉野宮にお出になって狩りをされた。
 雄略天皇5年(西暦461年)5月、葛城山で狩りをされた。急に飛び出した猪に驚いて、木の上に逃げて震えている舎人(とねり)を斬ろうとされたが、皇后の諌めもあって思い留まられた。

⑦雄略天皇5年(西暦461年)4~7月、百済(くだら)と深い関係にあった。

⑧雄略天皇6年(西暦462年)3月、養蚕(ようさん)を奨励された。

⑨雄略天皇7年(西暦463年)8月、吉備(きびの)上道臣(かみつみちのおみ)田狭(たさ)が宮殿の近くにいて、友人たちに稚媛(わかひめ)を褒めて「天下の美人でも稚媛に優る者はいない。にこやかで明るく輝き、際立って愛らしい。お化粧もその必要がなく、久しい世にも比(たぐ)いまれな抜群の美女ですよ」と云うのを、聞かれた天皇は早速、稚媛を召して妃とされた。

⑩天皇は、田狭臣(たさおみ)の子の弟君(おときみ)らを、百済(くだら)に遣(つかわ)して優れた才伎(てひと)(工人)を求め、新羅(しらぎ)を討つことを命じられた。弟君らは新羅を討たずに帰った。才伎(工人)が日本に来た。また陶部(すえつくりの)高貴(こうくい)、鞍部(くらつくりの)堅貴(けんくい)、画部(えかきの)因斯羅我(いんしらが)、錦部(にしきごりの)定安那錦(じょうあんなこむ)、訳語卯(おきみよう)安那(あんな)ら新しい渡来人もやって来た。

⑩雄略天皇8年(西暦464年)2月、身狭(むさの)村主(すぐり)青(あお)、桧隅(ひのくまの)民使(たみのつかい)博徳(はかとこ)を呉国(ごのくに)に遣(つか)わされた。新羅国は八年に及び貢物を奉っておらず、高麗国(こまのくに)に守りを頼っていた。ところが高麗国の守りは本当でなく、新羅国の侵略をねらっていたのであった。新羅王は任那(みなま)王(日本府)に助けを求めて来た。任那王が兵を出して大いに高麗の軍を破った。

⑪雄略天皇9年(西暦465年)2月、宗像(むなかた)の神を祀らせた。

⑫雄略天皇9年(西暦465年)3月、天皇は「新羅は前から朝貢を重ねていたのに、私が王となってからは、対馬(つしま)の先まで乗り出し、高麗(こま)の貢を妨げたり、百済の城を取ったりして、自らの貢物を怠っている。汝らを将軍に任ずる.兵をもって攻め討ち天罰を加えよ。」と申され、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)らを遣わされた。新羅の兵は多くが討たれ、残兵もやがて退却し戦いは勝利に終った。

⑬雄略天皇20年(西暦476年)冬、高麗(こま)王が大軍をもって百済を攻め滅ぼした。少しばかりの生き残りがいたが、高麗王は「百済の国は日本の宮家として長らく存している。また、その王は天皇に仕えている。周りの国々も衆知のことである」として、そのままにされた。

 雄略天皇21年(西暦477年)3月、久麻那利(こむなり)を百済の汶州王(もんすおう)に賜わって、この国を救い再興された。人々は「百済国は一族すでに亡んで、倉下(へすおと)にわずかに残っていたのを、天皇の御威光によりまたその国を興した」と云った。

 雄略天皇23年(西暦479年)4月、百済の文斤王(ぶんこんおう)が亡くなった。天皇は昆支王(こんきおう)の五人の子の中で、二番目の末多王(またおう)が若いのに聡明なのを見て、その国の王とされた。兵器を与えられ、筑紫国の兵士500人を遣わして、国へ送り届けられた。これが東城王(とうせいおう)である。この年、百済からの貢物は優っていたという。
 筑紫の安致臣(あちのおみ)、馬飼臣(うまかいのおみ)らは、船軍を率いて高麗(こま)を討った。
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by ikawazukbr | 2012-06-10 15:07 | 旅行記