井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(16)第16代:仁徳天皇(つづき)
c.主な出来事
①応神(おうじん)天皇41年(西暦310年)2月15日、応神(おうじん)天皇が崩御された。応神天皇は次代を莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子(みこ)に託しておられたが、莵道稚郎子皇子は、兄の大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)(後の仁徳(にんとく)天皇)に譲ろうとされ即位されなかった。
 莵道稚郎子皇子は大鷦鷯尊に対して「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くでなければならない。上に民を喜ぶ心があって国民を使えば、国民は欽然(きんぜん)として天下は安らかです。私は弟で、そうした過去の記録もありません。どうして兄を超えて位をつぎ、天業(てんぎょう)を統べることができましょうか。大王(きみ)(大鷦鷯尊)は立派なご容姿です。仁孝の徳があり歳も上です。天下の君となるのに十分です。先帝(応神天皇)が私を太子とされたのは、特に才能があるからというのではなく、ただ愛されたからです。宗廟(くに)社稷(いえ)に仕えることは重大なことです。私は不肖でとても及びません。兄は上に弟は下に、聖者は君となり、愚者は臣となるのは古今の通則です。どうか君は疑われず、帝位についてください。私は臣下としてお助けするばかりです。」と仰せられました。
 大鷦鷯尊は答えて「先帝も『皇位は一日たりとも空しくしてはならぬ』と申されている。それで前もって明徳の人を選び、王(莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子(みこ))を皇太子として立てられた。天皇の嗣(みつぎ)にさいわいあらしめ、万民をこれに授けられた。寵愛のしるしを尊んで、国中にそれが聞こえるようにされた。私は不肖で、どうして先帝の命に背いて、弟王の願いに従うことができようか。」と申された。
固く辞退(じたい)して受けられず譲(ゆず)り合われ、皇位は三年も空いたままであった。
 莵道稚郎子(うじのわきいらつこの)皇子(みこ)は「自分は兄の意思を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」と申されて、ついに自殺されてしまった。
 大鷦鷯尊は莵道稚郎子皇子の死を聞いて、驚いて急きょ難波宮から莵道宮(うじのみや)に来られた。胸を打ち泣きさけんで為すすべを知らぬ様子であった。悲しみ慟哭されること甚だしかった。

②仁徳(にんとく)天皇の即位
 仁徳天皇元年(西暦313年)正月3日、大鷦鷯(おおさざきの)尊(みこと)は即位された。難波(なにわ)に宮を造られ高津宮(たかつのみや)と云う。上塗りもせず、柱に飾りも付けず、屋根も萱をそろえてない、粗末な造りでありました。自分のことの為に人民に負担を掛けないためであった。二年(西暦314年)3月8日、磐之姫(いわのひめの)命(みこと)を皇后とされた。

③民の竈の煙
 仁徳天皇四年(西暦315年)2月6日、群臣に詔(みことのり)して「高澱(たかどの)に登って遙かに眺めると、人家の煙があたりに見られない。これは人民が貧しくて炊(かし)ぐ人がないのだろう。昔,聖王(せいおう)の御世には、人民は君の徳を称える声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政(まつりごと)について三年経ったが、褒め称える声も起らず、炊煙はまばらになっている。これは五穀が実らず百姓が窮乏しているのであろう。都の内ですらこの様子だから、遠い国ではどんなであろうか。」と申された。
 同・3月21日、詔して「今後三年間総て課税をやめ、人民の苦しみをやわらげよう。」と申された。この日から御自身も、御衣や履物は敗れるまで使われ、御食物を無駄にされず、慎ましくされて民の負担を減らそうとなされた。宮殿は傷んで雨漏が酷くなったが、修理もされなかった。この後、天候も穏やかで五穀豊穣が続き、人民は潤ってきて、徳を褒める声も起り、炊煙も賑やかになってきました。
 七年(西暦320年)4月1日、天皇が高澱に登って一望されると、人家の煙は盛んに上がっていた。天皇は「天が人君を立てるのは、人民の為である。人民が根本である。それで古(いにしえ)の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだなら、自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである。」と申された。
 9月、諸国の者が「課役が免除されて三年になります。そのため宮殿は荒れ,倉は空になりました。いま人民は豊かになって、家には蓄えもできました。こんなときに税をお払いして、宮殿を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう。」と申し上げました。けれどもまだ課税をお許しにならなかった。
 十年(西暦323年)10月、ようやく課税を命じられ宮殿を造られた。人民たちは促されなくても、老いも若きも材を運び土籠を背負って働いたので、宮殿は立派に整った。
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by ikawazukbr | 2012-05-21 14:05 | 旅行記