井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(12)第十二代:景行天皇(つづき)
c.主な出来事(つづき)
④日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征
 景行(けいこう)天皇40年6月(110年)、東国の蝦夷(えみし)が背いて周辺の諸国が動揺した。大碓皇子(おおうすのみこ)は、東国の討伐に出されることを恐れて隠れたが、ついに美濃の国を任されることになり、任地に行かされた。身毛津(みげつの)君(きみ)、守(もりの)君(きみ)の先祖となった。
 日本武尊は、雄々しく「熊襲を平定してから、いくらも日も経ていないが、今また東国の蝦夷(えみし)が叛いた。私にとっては大変ですが、急いで東国を平定する為に参ります」と云われました。天皇は、日本武尊を征夷(せいい)の将軍に任じられ「・・・・深謀(しんぼう)遠慮(えんりょ)をもって,良くない者をこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わず自ずから従うようにさせよ、言葉で暴(あら)ぶる神を静まらせ、やむお得ないときは武を振って姦鬼(かんき)を打ち祓え」と申されました。
 日本武尊は出発し、途中、伊勢神宮を参拝されました。倭姫命(やまとひめのみこと)に「いま天皇の命を承って東国に行き、諸々の欺く者どもを討つことになりました」と、お別れの挨拶を申し上げました。倭姫命は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を日本武尊に授け「よく気をつけて、決して油断しないように行きなさい」と申されました。
 日本武尊が初めに駿河に行かれたとき、その地の賊が欺いて野原での狩りを勧めた。日本武尊が野原の中にいるとき、火を付けられ囲まれてしまった。日本武尊は火打石を取り出して火をつけ、迎え火をつくり逃れられた。逆に賊を焼き滅ぼすことになった。ここを焼津という。
 また、一説に皇子の差しておられた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が勝手に抜けだして、皇子の傍らの草が薙ぎ祓われ、難を逃れられた。この事があったので草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。
『古事記』には、倭姫命が「火打ち道具等の御袋も授けた」と書かれている。
⑤弟橘媛(おとたちばなひめ)
 相模(さがみ)から海路を上総(かみつふさ)に渡ろうとされた。日本武尊は、海を望んで「こんな小さい海なんか、飛び上ってでも渡れるだろう」と大言壮語した。ところが沖に出ると暴風が起り、御船は漂流して進まなくなった。同行していた弟橘媛は、「いま海が荒れて御船が沈みそうです。これはきっと海神の仕業です。賎しい身の私ですが、皇子の身代りに海に入りましょう」と云いおえると、すぐ波を押しわけ海に入られました。暴風は嘘のようにすぐに止んだ。日本武尊と弟橘媛の心情、如何ばかりかと心に響く場面です。
 日本武尊は、上総(かみつふさ)から陸奥(むつの)国に入り、葦浦(あしうら)から玉浦(たまうら)を通って蝦夷の支配地に入られた。
⑥日本武尊の病と死
 日本武尊は蝦夷を平定し、日高見国(ひだかみのくに)から帰り、常陸(ひたち)を経て甲斐(かいの)国に入り、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を経て信濃(しなのの)国に入り険しい山路に苦しみながら進まれた。更に尾張に帰り尾張の娘:宮簾媛(みやすひめ)をめとって長く留まられた。近江(おうみ)の五十葺山(いぶきやま)(伊吹山(いぶきやま))に荒ぶる神の居ることを聞いて、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を宮簾媛の家に置いたまま徒歩で伊吹山に行くと、山の神は大蛇になって道を塞いだ。日本武尊は、山の神が大蛇になっているとは知らず、踏み越えて進んだ。、山の神は雲をおこして雹を振らせた。霧は峰にかかり谷は暗く、道がわからなくなった。日本武尊は、さまよい歩き正気を失い、酔ったようになった。病気になられたようである。
 山の下の泉の水を飲んで、やっと気がつかれた。ようやく尾張の戻ったが、宮簾媛の家に入らないで、伊勢の尾津(おつ)に到り、そこから能褒野(のぼの)に着いたときには病気がひどくなった。吉備津彦(きびつひこ)を遣わして、天皇に今の状況を奏上された。
 こうして能褒野でお亡くなりになりました。時に三十歳とあります。景行天皇は、小碓命がお亡くなりになった事をお聞きになり、安らかに眠れませんでした。食べても味気なく、昼夜むせび泣き、胸をうってかなしまれました。たいへん嘆かれて「わが子小碓皇子、かつて熊襲の叛いたとき、まだ総角(あげまき)(髪を左右に分け、耳の上で丸く巻いて結い上げる小児の髪型、ときに16歳)もせぬのに、長く戦いに出て、いつも私を助けてくれた。東夷が騒いで、他に適当な人がなかったので、やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。朝夕に帰る日を待ち続けた。何の禍か何の罪か、思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれと鴻業(あまつひつぎ)を治めようか」と、申されました。
⑦日本武尊白鳥(しらとりの)陵(みささぎ)
 天皇は、群卿(ぐんきょう)を召して、百僚(ひゃくりょう)に命じて、伊勢の能褒野に葬られました。そのとき日本武尊は白鳥(しらとり)となって、陵(みささぎ)から出て倭国(やまとのくに)を指して飛んで行きました。家来たちが棺を開いてみると、衣だけが残っており屍(しかばね)はありませんでした。そこで白鳥を追っていくと、倭の琴弾原(ことひきのはら)(奈良県御所市冨田)に留まりましたので、そこに陵(みささぎ)を造りました。白鳥はまた飛んで河内に行き、古市邑(ふるいちのむら)(大阪府羽曳野市軽里)に留まりましたので、そこにも陵(みささぎ)を造りました。この三つの陵(みささぎ)は、白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼ばれています。更に、白鳥は高く飛んで天に昇っていかれました。
⑧日本武尊の御子
 日本武尊は、両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ)を妃とし、稲依別王(いなよりわけのきみ)(犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)の祖)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)(後の成務(せいむむ)天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりひめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)、を生まれた。
 次の妃である吉備穴戸武媛(きびあなとのたけひめ)は、武卵王(たけかいごのみこ)(讃岐(さぬきの)綾君(あやのきみ)の祖)、十城別王(とおきわkwのきみ)(伊予別君(いよのわけのきみ)の祖)、を生まれた。次の妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、稚武彦王(わかたけひこのみこ)、を生まれた。
⑧天皇の東国巡幸
 景行(けいこう)天皇53年8月(123年)、天皇は、日本武尊が平定した諸国を巡幸された。景行天皇57年10月(127年)、諸国に田部(たぶ)と屯倉(みくら)を設けられた。
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by ikawazukbr | 2012-04-30 13:43 | 旅行記