井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(12)第十二代:景行(けいこう)天皇
    (大足彦(おおたらしひこ)忍代別(おしろわけの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=山辺(やまべの)道上(みちのえの)陵(みささぎ)
 古墳名=渋谷(しぶたにの)向山(むかいやま)古墳
 陵の形=前方後円・堀(全長290m、前方部幅165m、後援部径170m)
 所在地=奈良県天理市渋谷町
 交通=近鉄「天理」又は「桜井」下車、バスで「渋谷」下車、南へ100m
      (崇神(すじん)天皇の陵(みささぎ)の南)
b.履歴
 御名=大足彦(おおたらしひこ)忍代別(おしろわけの)尊
 父=第十一代:垂仁(すいにん)天皇
 母=日葉酢姫(ひばすひめの)命
 皇后=播磨(はりまの)稲日大郎女(いなひのおおいらつめ)、
      八坂入姫(やさかいりひめの)命
 妃=水歯郎女(みずはのいらつめ)、五十河媛(いかわひめ)、高田媛(たかたひめ)、
    日向(ひむかの)髪長大田根(かみながおおたね)、襲武媛(そのたけひめ)、
    御刀媛(みはかしひめ)
 皇子女=大碓皇子(おおうすのみこ)、小碓(おうすの)命(日本武(やまとたけるの)尊)、
       稚足彦(わかたらしひこの)尊(後の成務天皇)、
       五百城入彦(いわきいりひこの)皇子、忍野別(おしのわけの)皇子、
       稚倭根子(わかやまとねこの)皇子、大酢別(おおすわけの)皇子、
       渟熨斗(ぬのしの)皇女(ひめみこ)、停名城(ぬなきの)皇女、
       五百城入姫(いおきいりひめの)皇女、麛依姫(かごよりひめの)皇女、
       五十狭城(いさき)入彦(いりひこの)皇女、吉備兄彦(きびえひこの)皇子、
       高城入姫(たかきいりひめの)皇女、弟姫(おとひめの)皇女、
       五百野(いほのの)皇女、神櫛(かみくしの)皇子(讃岐の国造の祖)、
       稲背入彦(いなせいりひこの)皇子(播磨別の祖)、
       武国凝別(たけくにこりわけの)皇子(伊予国御村別(みむらわけ)の祖)、
       日向(ひむかの)襲都彦(そつひこの)皇子(阿牟(あむの)君の祖)、
       国乳別(くにちわけの)皇子(水沼(みぬまの)別(わけ)の祖)、
       国背別(くにせわけの)皇子、
       豊戸別(とよとわけの)皇子(火国別(ひのくにのわけ)の祖)、
       豊国別(とよくにわけの)皇子(日向(ひむかの)国造(くにのみやっこ)の祖)
 誕生=垂仁(すいにん)天皇17年(西暦・前13年)
 立太子=垂仁(すいにん)天皇37年(8年)正月1日
 即位=景行(けいこう)天皇元年(71年)7月11日 
 崩御=景行(けいこう)天皇60年(130年)11月7日
 在位年数=60年
 年齢=143歳
 年号=―――
 皇居=纏向(まきむくの)日代宮(ひしろのみや)(奈良県桜井市穴師)
     志賀(しがの)高穴穂宮(たかあなほのみや)(滋賀県大津市坂本穴太町)
c.主な出来事
①遷都(せんと)
 景行(けいこう)天皇4年11月(67年)都を纏向の地に移した。日代宮という。
 景行(けいこう)天皇58年2月(128年)都を志賀の地に移した。高穴穂宮という。
②諸賊の反乱
 景行(けいこう)天皇12年7月(59年)、熊襲(くまそ)がそむいて不穏な様子になった。天皇は、筑紫に向われました。鼻垂(はなたり)、耳垂(みみたり)、麻剥(あさはぎ)、土折(つちおり)猪折(いおり)、土蜘蛛(つち」くも)・青、土蜘蛛・白、土蜘蛛・打猿(うちさる)、土蜘蛛・八田(やた)、土蜘蛛・国麻呂(くにまろ)、熊襲(くまそ)梟師(たける)、熊津彦(くまつひこ)・弟熊(おとくま)、土蜘蛛・津頬(つつら)、達を討伐されました。
 景行(けいこう)天皇25年2月(46年)、竹内宿禰(たけしうちのすくね)を遣して、東方の諸国の地系や人民の有様を視察させられました。この頃、また熊襲がそむいて怯えさせていた。
③熊襲討伐
 景行(けいこう)天皇27年10月(44年)、小碓命(おうすのみこと)(時に16歳、身丈は1丈、力は抜群に強く、逞しい男である)を熊襲討伐に遣しました。熊襲の国に到着して地形や人の暮らしぶりを見られた。熊襲(くまそ)に魁師(たける)という者がいて、名を取(とろ)石(し)鹿(か)文(や)または川上(かわかみの)熊襲といった。一族を集めて新築祝いをしようとしていた。小碓命は童女のように垂らし髪にして、剣を衣の中に隠して魁師(たける)の酒宴の室に入り、女たちの中に紛れていた。魁師はその童女の容姿を褒めて、手を取って同席させ盃をあげて戯れ遊んだ。夜がふけて人もまばらになり、魁師も酔いがまわった。
 小碓命は、衣の中から剣を取り出して魁師の胸を刺した。魁師は、苦しい息のなか「しばらくお待ちください」とお願いした。小碓命は剣を留めて待たれた。魁師は「あなたは何方でいらっしゃいますか」と問う。小碓命は、、「自分は景行(けいこう)天皇の子で、名は日本童男(やまとおぐな)という」と答える。魁師は「私は国中で最強の者です。人々は私の威力を恐れて従わない者はありません。私は多くの武人に合いましたが、皇子のような方は初めてです。賎しい者からですが、尊号を差し上げたい。お許しくださいますか」という。小碓命は「許そう」と。
 そこで「これ以後、皇子を名づけて“日本武(やまとたけるの)皇子(みこ)”と申し上げたい」と云って死んだ。この事があってから、小碓命を褒め称えて「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と申し上げるようになりました。「ヤマトタケル」は歌舞伎などで観られ、ご存知でしょう。日本武尊は、熊襲を平定し海路を倭に向われ、海中、吉備の穴海(あなのうみ)や難波の柏渡(かしわのわたり)を和(やわ)らげ、水陸の路の安全を確保されました。
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by ikawazukbr | 2012-04-28 11:20 | 旅行記