井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(11)第11代:垂仁(すいにん)天皇
    (活目入彦(いくめいりひこ)五十狭茅(いさちのちの)天皇(すめらみこと))
a.御陵
 陵名=菅原(すがわらの)伏見東(ふしみのひがしの)陵(みささぎ)
 古墳名=尼辻(あまつじ)宝来山(ほうらいさん)古墳
 陵の形=前方後円・堀
       (全長227m、前方部幅118m、後円部径123m、高さ18m)
 所在地=奈良県奈良市尼辻西町
 交通=近鉄京都線「尼ヶ辻駅」下車、南西ヘ700m

垂仁(すいにん)天皇の陵(みささぎ)の近くにある御陵
 第十三代:成務(せいむ)天皇(稚足彦(わかたらしひこの)天皇(すめらみこと))=
        狭城(さきの)楯列池後(たたなみのいけじりの)陵(みささぎ)
 第二十代:安康(あんこう)天皇(穴穂(あなほの)天皇(すめらみこと))~
        菅原(すがわらの)伏見西(ふしみのにしの)陵(みささぎ)
 第四十六代:孝謙(こうけん)天皇=重祚されて第四十八代:称徳天皇であります→
 第四十八代:称徳(しょうとく)天皇(宝字称徳幸謙皇帝)高野(たかぬの)陵(みささぎ)
 第11代:垂仁(すいにん)天皇の皇后:日葉酢媛(ひはすひめの)命(みこと)陵(みささぎ)
 第十四代:仲哀(ちゅうあい)天皇(てんのう)の皇后:神功(じんぐう)皇后陵(みささぎ)
        (気長足(おきながたらし)姫(ひめの)尊(みこと)陵(みささぎ))

b.履歴
 御名=活目入彦(いくめいりひこ)五十狭茅(いさちの)尊(みこと)
 父=第十代:崇神(すじん)天皇
 母=御間城姫(みまきひめの)命
 皇后=狭穂姫(さほひめの)命、日葉酢媛(ひばすひめの)命
 妃=渟葉田瓊(ぬばたに)入媛(いりひめ)命、真砥野媛(まとのひめ)命、
     薊瓊入媛(あざみにいりひめ)命,迦具夜比売命
     苅幡戸辺(かりはたとべの)命、
     綺戸辺(かにはたとべ)竹野媛(たけのひめの)命
 皇子女=誉津別(ほむつわけの)命、五十瓊敷入彦(いにしきいりひこの)尊、
       大足彦(おおたらしひこの)命(後の景行天皇)、
       大中姫(おおなかつひめの)命、倭姫命(やまとひめのみこと)、
       稚城瓊(わかきに)入彦(いりびこの)命、
       鐘石別(ぬてしけの)命(三尾(みおの)君(きみ)の祖)
       胆香足姫(いかたらしひめの)命、池速別(いけはやわけの)命、
       稚麻津媛(わかあさつひめの)命、磐衛別(いわつくわけの)命、
       祖別(おおじわけの)命、五十日足彦(い かたらしひこの)命(石田君の祖)、
       胆武別(いたけるわけの)命
 誕生=崇神(すじん)天皇29年(西暦前69年)正月1日
 立太子=崇神(すじん)天皇48年(前50年)4月19日
 即位=垂仁(すいにん)天皇元年(前29年)正月2日~
 崩御=垂仁(すいにん)天皇99年(後70年)7月14日
 在位年数=99年、年齢は139歳
 年号=―――
 皇居=纏向(まきむくの)珠城宮(たまきのみや)(奈良県桜井市穴師)

c.主な出来事
①遷都
 垂仁(すいにん)天皇元年(前29年)都を纏向の地に移した。珠城宮という。
②狭穂彦(さほひこの)王(きみ)の謀反
 垂仁(すいにん)天皇四年(前25年)、皇后「狭穂姫(さほひめの)命の兄である狭穂彦(さほひこの)王(きみ)が謀反を企て、自分が皇位につきたいがために、「天皇が眠っているときに頸を刺して殺してくれ」と皇后に匕首を授けました。皇后は、心わななきましたが、たやすく兄を諌めることも出来ず思い悩みました。
 天皇が皇后の膝を枕に昼寝をされたので、皇后は「この時にこそ」と思われたが実行できませんでした。涙があふれて天皇の顔に落ちた。天皇は目覚めて夢をみたことを話し、どういうことであろうか?と申されました。
 皇后は、この謀ほ隠すことが出来ないとさとり、恐れて地に伏して申し上げました。天皇は、狭穂彦に兵を差し向けましたが、戦が長引くうちに、皇后も申し訳ないことと狭穂彦の城に入られました。やがて共に亡くなられました。
 夫である垂仁(すいにん)天皇と兄である狭穂彦の間に“板ばさみ”となって苦悩される狭穂姫命の心情や、狭穂彦の反逆にもかかわらず狭穂姫命を愛しく思って許されようとする天皇の心情が絡み合っている、抒情性豊かな物語であります。
③角力の元祖
 当麻邑(たぎまのむら)の当麻(たぎまの)蹴速(けはや)という力自慢と、出雲国の野見(のみの)宿禰(すくね)が角力をとった。野見宿禰が当麻蹴速のアバラ骨を砕き、腰を踏みくじいて殺した、と書かれています。すざましい角力だったのです。
④伊勢の祭祀
 垂仁天皇二十五年三月、天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりひめの)命からはなして、倭姫命に託されました。倭姫命は大神をご鎮座申し上げるべき良きところを探して行脚されます。笠縫邑→宇陀の篠原→近江国→美濃国→伊勢国に到ります。
 天照大神は「是の神風の伊勢の国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲ふ」と倭姫命に告げたまいました。
 倭姫命は、大神の教えのままに齊宮(いわいのみや)を五十鈴の川上に興(た)てました。是を磯宮(いそのみや)といいます。天照大神が始めて天より降られました處であります。
⑤屯倉(みくら)
 垂仁天皇二十七年、始めて屯倉を来目邑にたてました。屯倉とは、朝廷直轄の農業経営地または直轄領地のことです。
⑤野見宿禰と埴輪
 垂仁天皇二十八年十月、天皇の母の弟:倭彦(やまとひこの)命が亡くなられた。葬ったときに、近習の者を生きたまま陵のまわりに埋めました。何日も昼夜泣きうめき、死んでは犬や鳥が集まり食べました。天皇は、これを見、聞かれてたいへん心を痛められました。「古(いにしえ)からの風習ではあるが、これからは止めよう」と申されました。三十二年七月、皇后:日葉酢媛命が亡くなられた時、野見宿禰が埴土(はにつち)で人や馬など色々の物の形を造り、「この土物(はにもの)を以って生きた人に替え、陵墓(りょうぼ)に立てることを後世のきまりとしてください」と申し出ました。天皇は、たいへん喜ばれて、日葉酢媛命の陵の周りに立てまた。この土物(はにもの)を埴輪(はにわ)と云います。
⑥池や灌漑用水路の造成
 垂仁天皇二十五年、数多くの池や灌漑用水路が造成されました。百姓は富み豊かになり、天下(あめのした)は太平になりました。
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by ikawazukbr | 2012-04-25 15:45 | 旅行記