井蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
2.歴代天皇さまの”みささぎ”の所在地の案内とその時代背景
①参考資料
 第一代:神武天皇さまから第四十一代:持統天皇さままでは、『日本書紀』に書かれている漢字と内容を用います。(『古事記』に書かれている漢字や内容とは相違があります)、第四十二代:文部天皇さま以降は、『続日本紀』・『日本後紀』。その他を用います。
②天皇陵の整備
 現在の天皇陵は、どこでも同じ形式であり、周囲が柵で囲われ人が入れないようになり、鳥居と石灯篭を配した御杯所があります。しかし、このように整備されたのは、幕末期の文久(西暦1861年)時代に、徳川幕府によって始められた修造工事からであります。それまで多くの古墳は周辺の人々にとって農業生産のための場であり、墳丘部は山林として燃料や肥料の供給減であり、周壕は灌漑用水の溜池として利用されていたようです。
 文久の修造によって、形態が整い管理人が置かれたのですが、この工事は元の形に復元するためではなく、見た目の形態を整え、歴代天皇の”みささぎ”が「どの地にある古墳に該当するのか?」を決める事にあったようです。
 文久の修造に主となって活躍されたのは、谷森義臣という方であります。『日本書紀』・『古事記』を始めとする文献を基に、どの地にある古墳が該当するのか?、従来存在した所説を充分に検討しながら、自説を展開された当時として最高の研究成果を残されました。”みささぎ”のほとんどがこのとき決められたようです。しかし、今日において、飛躍的に進んだ文献や考古学の研究成果を見ると疑問が生じ、幾多の異説を生み出すことになっていますが、これも当然といえば当然かもしれません。
 ちなみに、文久の修造といわれておりますが、文久(1861~1864)、元治(1864~1865)、慶応(1865~1868)、明治(1868~)の中頃まで掛かっております。
 時に、幕末、第14代将軍:徳川家茂、第15代将軍:徳川慶喜の時代で、安政6年(1859)には吉田松陰らが死刑されています。文久2年(1862)には桜田門外の変がありました。こうした時代ですから、徳川幕府としても尊皇の姿勢を民衆に見れる形にしなければならなかった、のであると云われています。

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by ikawazukbr | 2012-03-14 16:39 | 旅行記