井蛙見聞録
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井の中の蛙見聞録
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みささぎ参拝の薦め
(34)第34代:舒明(じょめい) 天皇
   (息長足(おきながたらし)日広額(ひひろぬかの)天皇(すめらみこと))

a.御陵
 陵名=押坂内(おさかのうちの)陵(みささぎ)
 古墳名=忍坂段ノ塚古墳
 陵の形=上円下方
 所在地=奈良県桜井市大字忍坂
 交通=近鉄大阪線・JR桜井線「桜井駅」下車、バスで「忍坂」下車、東へ300m

b.履歴
 御名・異称=息長足(おきながたらし)日広額(ひひろぬかの)尊(みこと)・
          田村(たむらの)皇子(みこ)(敏達天皇の孫)
 父=押坂彦人(おしさかのひこひとの)大兄(おおえの)皇子(みこ)
 母=糠手(ぬかで)姫(ひめの)皇女(ひめみこ)
 皇后=宝(たからの)皇女(ひめみこ)(=第35代:皇極(こうぎょく)天皇=
      第37代:斉明(さい」めい)天皇)
 妃=①法堤郎媛(蘇我馬子の娘)、②蚊屋(かやの)采女(うねめ)、
 皇子女=皇后→葛城(かつらぎの)皇子(みこ)(後の天智(てんち)天皇)、
            間人(はしひとの)皇女(ひめみこ)(孝徳(こうとく)天皇の皇后)、
            大海(おおあまの)皇子(みこ)(後の天武(てんむ)天皇)
     妃①→古人(ふるひとの)皇子(みこ)(別名=大兄(おおえの)皇子(みこ))、
     妃②→蚊屋(かやの)皇子(みこ)、
 誕生=推古(すいこ)天皇元年(西暦593年)
 即位=舒明(じょめい) 天皇元年(629年)1月4日
 崩御=舒明(じょめい) 天皇13年(641年)10月9日
 在位年数=13年
 年齢=49歳
 年号=―――
 皇居=飛鳥(あすかの)岡本宮(おかもとのみや)(奈良県高市郡明日香村)
      田中宮(たなかのみや)(奈良県橿原市畝傍町)
      厩坂宮(うまやさかのみや)(奈良県橿原市大軽町)
      百済(くだらの)宮(みや)(奈良県北葛城郡広陵町百済)
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# by ikawazukbr | 2012-08-31 10:58 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき17)

(33特5)聖徳太子(しょうとくたいし)の墓(天皇ではないので墓となっている)
a.御陵
 陵名=聖徳皇太子磯長(しなが)御廟(ごびょう)
 墳名=叡福寺(えいふくじ)北古墳
 陵の形=方丘(直径54.3m、高さ7.2m、横穴式石室の中央に、母の穴穂部間人
       (あなほべのまひと)皇后が、東に皇太子が、西に妃の膳部(かしわでの)
       菩岐岐美(ぼききみの)郎女(いらつめ)が葬られている)
 所在地=大阪府南河内郡太子町太子2146 叡福寺境内
 交通=近鉄南大阪線「貴志駅」下車、バス北回り「太子前」下車、すぐ

b.履歴
 御名・異称=厩戸(うまやどの)皇子(みこ)(別名=豊耳聡(とよとみみし)聖徳(ょうとく)、
         豊聡耳(とよとみみの)法(のりの)大王(おおきみ)、法主(のりのうしの)
         王(おおきみ)) (厩戸(うまやとの)豊聰耳(とよとみみの)皇子(みこ)、
         上宮(かみつみやの)厩戸(うまやとの)豊聰耳(とよとみみの)太子
         (ひつぎのみこ)と書かれているところもある。一般に聖徳太子(しょうとく
         たいし)として知られている。)
 父=用明(ようめい)天皇
 母=穴穂部間人(あなほべのまひと)皇后(こうごう)
 妃=膳部(かしわでの)菩岐岐美(ぼききみの)郎女(いらつめ)
 摂政就任=推古(すいこ)天皇元年(西暦597年)4月10日
 薨去=推古天皇29年(西暦621年)2月5日、斑鳩(いかるが)宮において薨去。

①叡福寺(えいふくじ)北古墳(聖徳太子の墓)の近くに、太子西山古墳(第30代:敏達(びたつ)天皇の陵(みささぎ))、春日向山古墳(第31代:用明(とうめい)天皇の陵)、山田高塚古墳(第33代:推古(すいこ)天皇の陵)、山田上ノ山古墳(第36代:孝徳(こうとく)天皇の陵)がある。
推古天皇28年(西暦620年)に、聖徳太子がこの地を墓所に定められた。
推古天皇29年(西暦621年)に、母の穴穂部間人皇后が没すると、ここに葬られた。同年2月5日に聖徳太子が没したが、その前日に没した妃の膳部菩岐岐美郎女と相次いだので、ここに合葬され三骨一廟となっている。

②推古天皇30年(西暦622年)、推古天皇の勅願(ちょくがん)により、太子の墓を守護と追福(ついふく)を営むために、香華寺として坊舎(ぼうしゃ)(墓守の家10軒)を建立したのが開基とされている。神亀(じんき)元年(西暦724年)に聖武(しょうむ)天皇の勅願で、太子御廟の東西に、東の伽藍を転法輪寺(てんほうりんじ)、西の伽藍を叡福寺とする、規模6町(約660m)四方に及ぶ大伽藍が建立された。その御440年を経て平重盛(たいらのしげもり)のよって堂塔の大修理が行なわれ面目を一新した。天正(てんしょう)2年(西暦1574年)織田信長の兵火ににより伽藍全部が消失した。その後、慶長(けいちょう)年間(17世紀初め)第107代:後陽成(ごようぜいぜい)天皇(在位=西暦1586~1611年)の勅願により、豊臣秀頼(秀吉の子)が聖霊殿(せいれいでん)が再建され、相次いで諸堂が再建された。
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# by ikawazukbr | 2012-08-27 09:40 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき16)

〔第13条:諸(もろもろ)の任(よさ)せる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさどりごと)を知れ。或ひは病し、或ひは使いて、事に闕(おこた)る有らむ、然(しか)れども、知ることを得る日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それ与(あづか)り聞くこと非(な)しといふをもつて、公務(まつりごと)を妨(さまた)ぐること勿(なか)れ〕

〔第14条:群臣(まえつぎみ)百寮(もものつかさ)、嫉(うらみ)妬(ねたむ)こと有ること無かれ。我れ既に人を妬(ねた)めば、人また我れを妬(ねた)む。嫉(うらみ)妬(ねたむ)の患(うれひ)、その極りを知らず、所以(このゆえ)に智(さとり)己に優(まさ)れば則ち悦(よろこ)ばず、才(さい)己に優れば則ち嫉(ね)妬(た)む。是を以て五百年(いほとせ)にして、乃(い)今(まし)、賢(さかしきひと)に遇(あ)うとも、千歳にして、一(ひとりの)聖(ひじり)を待つこと難し。それ賢聖を得ずんば、何を以てか国を治(おさ)めん。〕

〔第15条:私(わたくし)を背(そむ)きて公(おほやけ)に向(む)くは、これ臣の道なり。凡(およ)そ人、私(わたくし)有れば必ず恨(うらみ)有り。憾(うらみ)有るときは必ず同(ととのほ)らず。同(ととのほ)らざれば、則ち私(わたくし)をもって公(おほやけ)を妨(さまた)ぐ。憾(うらみ)起るときは則ち制(ことわり)に違(たが)ひ、法(のり)を害(やぶ)る。故に初章に云わく。上下(かみしも)和諧(わかい)せよと。それ亦、是に情(こころ)なるか。〕

〔第16条:民(おほみたから)を使ふに時をもってするは、古(いにしえ)の良(よき)典(のり)なり、故(か)れ冬の月には間(いとま)有りて、もって民(おほみたから)を使ふべし。春より秋に至りては、農(なりはい)桑(こがひ)の節なり、民を使ふべからず。それ農(なりはい)せざれば何をか食(は)まむ。桑(こがひ)とらずば何をか服(き)む。〕
 *時を無視して民を私物の如く扱うことなかれ。

〔第17条:大事をば独り断(さだ)むべからず。かならず衆(もろもろ)と与(とも)に論(あげつらう)ふべし。小事(ちさきこと)はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆(もろもろ)と共にすべからず。ただ大事を論(あげつらう)ふに逮(およ)びては、もし失(あやまち)有らむことを疑う。故に衆(もろもろ)と与(とも)に相(あい)弁(わきま)ふるときは、辞(こと)、則ち理(ことわり)を得む。〕
 *この条に規定されているのは、明らかに民主主義の基本原理である。大事は必ず独断してはいけない。衆知をもって充分協議を尽すならば、誤りなきを期することができるであろといふのであるから、承詔必謹(しょうせうひつきん)(第二条)とのあまりにもはっきりした矛盾を、何としたらよいか。太子憲法の無知杜撰(ずさん)に帰して事がすむのであろうか。それでよいのであろうか。
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# by ikawazukbr | 2012-08-24 17:17 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき15)

〔第10条:忿(ふん)(こころのいかり)を絶ち、瞋(しん)(おもてのいかり)を棄(す)てて、人の違(たが)ふを怒(いか)らざれ。人皆心有り、心各(おのおの)執(と)ること有り。彼れ是(よし)むずれば、即ち我れは非(あし)むずる。我れ非(あし)むずれば、即ち我れ非(あし)むずる。我れ必ずしも聖に非ず。彼れ必ずしも愚に非ず。共にこれ凡夫(ただひと)のみ。是非の理、詎(たれ)か能(よ)く定む可(べ)き。相共に賢愚(けんぐ)なること、鐶(みみがね)の端なきが如し。彼の人は瞋(いか)るとえ雖(いえど)も、還って我が失(あやまち)を恐れよ。我れ独り得たりと雖(いえど)も、衆(もろもろ)に従いて同じく挙(おこな)へ〕
 *ここで注意すべきは、「共にこれ凡夫のみ」というお言葉である。第5条以下をつぶさに味い読めばわかるとおり、この言葉は決して、いわゆる仏教的な「凡夫」の意味で使われているのではない。人は皆、それぞれ
に自分の意見を持ち、立場があるものだ。それに執着しがちなものだ。思い違いやら取り違いやら、正しいところもあれば、抜けてるところもある。だからはやまって軽率に是非善悪を断じたり腹を立てたりしてはならぬ。お互いに「賢愚なること鐶(みみがね)の端なきが如し」というので、「凡夫」と言われたので、だから常に相手の身になって考えよ、「常に光明面を見て暗黒面を見るべからず」となるのである。太子は、人間を「凡夫」と断じておられたのではない。十七条憲法は、あくまでも真理現成を使命とする国家に、官吏(みこともち)として職を奉じる者の、その任務遂行を第一義とする官吏の心構えを説かれ規定されているのである。

〔第11条:功(いさみ)過(あやまち)を明察(あきらか)にして、賞罰(たまものつみなへ)を必ず当てよ。日者(このごろ)、賞(たまもの)、功(いさみ)に在(おい)てぜず、過(あやまち)、罪に在(おい)てぜず。事を執る群(ぐん)卿(けい)、宜しく賞罰を明らかにすべし。〕

〔第12条:国司(みこともち)、国造(くにのみやつこ)、百姓(おほむたから)より歛(をさ)めとることなかれ。国に二(ふたり)の君なく、民(たみ)に両(ふたり)の主(あるじ)無し。率土(くにのうち)の兆(おほむ)民(たから)、王(きみ)をもちて主となす。任(よさ)する官司(つかさみこともち)は、皆これ王の臣なり。何ぞあへて公(おおやけ)と与(とも)に、百姓(おほむたから)より賦(をさ)め歛(と)らむ。〕
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# by ikawazukbr | 2012-08-21 14:23 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき14)

〔第5条:餐(さん)(あぢはひのむさぼり)を絶(た)ち、欲(たからのほしみ)を捨て、明かに訴訟(うつたえ)を弁(わきま)へよ。それ百姓(おほむたから)の訟(うつたへ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟(うつたえ)を治むる者、利(くぼさ)を得て常と為し、賄(まひない)を見て讞(ことわり)を聴(まを)す。便(すなは)ち、財(たから)有るものの訟(うつたへ)は、石をもて水に投ぐるが如く、乏(とも)しき者(ひと)の訟(うつたへ)は、水をもて石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民(たみ)は則(すなは)ち由(よ)る所を知らず。臣(しん)の道またここに闕(か)く。〕
 *臣下の道、国家に官吏たるものの道義を説いて真に切々たるものである。

〔第6条:悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。是をもって、人の善を匿(かく)さず、悪を見ては必ず匿(かく)せ。それ謟(へつら)ひ詐(あざむ)く者は、即ち国家を覆(くつが)へす利(とき)器(うつわもの)たり、人民(おほみたから)を絶(た)つ鋒(とき)剣(つるぎ)なり。また倭(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則(すなわ)ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説(と)き、下(しも)に遇(あ)いては則(すなわ)ち上(かみ)の失(あやまち)を誹(そ)謗(し)る。それかくの如きの人は、みな君(きみ)に忠(ちゅう)なく、民(たみ)に仁(めぐみ)なし。これ大乱(たいらん)の本(もと)なり。〕

〔第7条:人各(おのおの)任(よさし)有り、掌(つかさど)ること宜しく濫(みだ)れざるべし。それ賢(さかしき)哲(ひと)官(くわん)に任(まか)すときは、頌音(ほむるこえ)則(すなわ)ち起り、奸者(かたましきひと)官を有(たもつ)つときは、禍(わざわ)い乱れ則(すなわ)ち繁(しげ)し。世に生れながらに知るもの少なし。尅(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)、大と小と無く、人を得れば必ず治まり、時(とき)急緩(きゅうかん)と無く、賢(さかしきひと)に遇(あ)えば自(おのず)から寛(ゆたか)なり。是に因って国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あやう)きこと勿(な)し。故に古(いにしえ)の聖(せい)王(おう)は、官の為に人を求め、人の為に官を求めず。〕
 *氏族制度の弊害が著しくあるので、有為の人材を登用する冠位十二階を制定し改革を断行されたのである。

〔第8条:群卿(まえつぎみ)百寮(もものつかさ)、早(と)く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事(おほやけごと)いとまもなく、終日(ひねもす)にも尽(つく)し難(がたし)し。是(ここ)を以て、遅(おそ)く朝(まい)れば、急(きゅう)に逮(およ)ばず。早(はや)く退(まか)れば、必(かなら)ず事尽(つく)さず。〕

〔第9条:信(まこと)はこれ義(ことわり)の本なり。事ごとに信あれ。それ善し悪しき成(な)ら敗(な)りぬ。要(かなら)ず信に在り。群臣(まへつぎみ)共に信あるときは、何事か成らざらむ。群臣(まへつぎみ)信なければ、万事悉(ことごと)に敗る。〕
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# by ikawazukbr | 2012-08-19 09:26 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき13)

(33特4)十七条憲法(山口悌治先生の著書『万葉の世界と精神』より)条文は「旧かなづかい」のままにしてある。

〔第1条:和(わ)をもって貴(とおとし)となし、忓(さか)ふること無きを宗(むね)と為(せ)よ。人皆党(たむら)あり、また達(さと)れる者少し。是をもって、或ひは君父(きみちち)に順(したが)わずして乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然れども上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて事を論(あげつら)ふに誯(かな)ふときは、即ち事理(ことわり)自らに通ふ。何事か成(な)らざらむ。〕
 *「和」である。「和」は、心法(しんほう)一如(いちにょ)の自覚であり、仏子の自覚であり、神の子の自覚である。生かし合いであり、円満であり、具足である。「和」こそ生成の原理であり、国家存立の基底であり、人間の本質である。

〔第2条:篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬(うやま)え。三宝は仏法僧なり。即ち四生の終帰(よりどころ)。万国の極宗(きわめのむね)なり。何(いづれ)の世何(いづれ)の人かこの法(のり)を貴(とうと)ばざる。人丈(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し。能(よ)く教ふるときは従う。それ三宝に帰(よ)りまつらずば、何をもってか枉(まが)れるを直(なお)さむ。〕
 *真理国家としての理念の現成に仏法を摂取された。

〔第3条:詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め。君(きみ)をば則(すなわ)ち天(あま)とし、臣(おみ)をば則(すなわ)ち地(つち)とす。天覆(あまおお)い地(つち)載(の)せて、四時順(めぐ)り行き、万気(よろずのき)通ふことを得。地(つち)、天(あま)を覆(おほ)はむと欲(す)るときは、則(すなわ)ち壊(やぶ)るることを致(いた)さむのみ。是をもちて君(きみ)言(のたま)うときは臣承(うけたまわ)り、上(かみ)行うときは下(しも)靡(なび)く。故に詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず慎(つつし)め、謹(つつし)まずんば自(みず)からに敗(やぶ)れなむ。〕
 *一君万民の統治の大本と、君臣の分とを的確に明示している。

〔第4条:群卿(まへつぎみ)百寮(もものつかさ)、礼(いやまい)をもって本と為(せ)よ。それ民(たみ)を治(おさ)むる本は、要(かなら)ず礼(いやまい)に在り。上(かみ)礼(いやまい)なきときは、下(しも)斉(ととの)ほらず、下(しも)礼(いやまい)無きときは、必ず罪有り。是をもって群臣(まへつぎみたち)礼(いやまい)有るときは位(くらい)の次(ついで)乱(みだ)れず、百姓(おほむたから)礼(いやまい)有るときは、国家(あめのした)自から治まる。〕
 *政治の原則として儒教が生かされる。
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# by ikawazukbr | 2012-08-17 18:07 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)推古天皇(つづき12)

⑮十七条憲法は「中(みなか)」の理念の具象化である【1】(115ページ)
 憲法を拝読して、何人にも痛感される一つの思いは,余りにも「私」に執着して“神”を忘れ、六欲煩悩に溺れやすい現象人間の脆さ卑しさ哀れな自己満足の姿に対する、骨身にしみるような太子の洞察の深さである。この深さが晩年の太子をあの夢殿に籠らせたのではないであろうか。あくまでも青く深く、澄み切った太子の双眼が想い浮ぶ。同時にまた、重なるようにしてうるみに滲んだ太子の双眼が浮ぶ。「みんな仲良くせよ」との憲法第1条のお言葉が、無限の響きをもって聞こえてくる。

 第1条「和(わ)をもって貴(とおとし)となし、忓(さか)うること無きを宗(むね)と為(せ)よ。・・・・・・
 「和」である。「和」とは何であろうか。「和」は妥協ではない。遠慮の仕合でもない。「和」は生命のリズムである。生命そのものである。心法一如の自覚であり、仏子の自覚であり、神の子の自覚である。生かし合いであり、円満であり、具足である。一切である。したがって「和」は秩序である。秩序は「中(みなか)」においてのみ可能である。したがって「和」は「中」の顕現のなかにのみ存在する。「中」においてこそ「大和」があり得る。「和」こそ生成の原理であり、国家存立の基底であり、人間の本質である。だから「和」を第1条に置かれたのであろうか。

⑯十七条憲法は「中(みなか)」の理念の具象化である【2】(116ページ)
 まことに、十七条憲法において万教帰一の典型を見る。万教帰一は日本民族本来の精神なのである。天皇の理念が天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)であり、「中」の展開であるからこそ、万教の和があり得るのである。大和があり、仏法があり、承詔必謹(しょうせいひっけん)があり、礼があって、いよいよ憲法の結論がでてくる。
 十七条憲法が指向しているものは、天皇の専制支配の確立とは全く関係がない。そこにひたすら祈念されているものは、人倫の規範としての真理国家の現成である。宇宙不変の道義に基く国家の現成である。「中」の展開としての大和の世界の実現である。仏教も儒教も、三宝の教えも五常の徳目も、すべてみなこの一つの悲願に向って集中されているのを見る。そして、天皇の継承者、天津日嗣としての天皇の神聖なる権威は、建国の理念であり、皇国の道統であるこの大願に発していることを、太子はこの憲法において改めて宣言されたのである。
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# by ikawazukbr | 2012-08-14 10:45 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき11)

⑪太子の悲願と仏法の興隆(108ページ)
 推古天皇6年、『勝鬘経(しょうまんきょう)』の講讃(こうさん)が、仏法の興隆の詔(みことのり)にもとづく純粋に宗教的な見地に立っての仏典の講讃とみなされてはならないこと。その講讃の目標は、あくまでも王法の成就をめざす政治的な意図を深く蔵されたものであることを、これぐれも強調しておきたい。たしかに日本の仏教文化は太子を源流としている。その功績は鑕仰するほかない。しかし太子による大乗の真理国家としての日本建国の理念の確立こそが太子の悲願であって、仏教の摂取もこの目的成就にあったことは、太子の全治蹟がこれを証明している。

⑫氏族制度を否定する新:冠位(かんい)の制定(109ページ)
 推古天皇11年12月、飛鳥(あすか)維新(いしん)の第二弾が放たれた。冠位(かんい)十二階の制定で有る。(前述:c.主な出来事 ⑨項)(冠位に用いられた)五常(ごじょう)の徳目(とくもく)にしても、その序列は、仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・信(しん)であるが、太子はこれを〔仁(じん)・礼(れい)・信(しん)・義(ぎ)・智(ち)]に入れかえ、更に“徳(とく)”の位階(いかい)を最上級とされたのは、真理国家の官に在るものの精神の姿勢を匡(ただ)そうとする、お考えに出られたものであろう。(中略)大切な点は、国家の統治の組織を世襲氏族から、高徳有能な人物を基礎とする体制へ全面的に切替えを計られ、それがその根本方針なのである。

⑬政治的革新の基本理念としての「十七条憲法」(109~110ページ)
 憲法十七ヶ条は、聖徳太子の悲願の結晶である。未曾有の難局に摂政として国運を雙肩に荷われてから12年。御歳31歳。太子にとっては、もはやすべてが明らかであり、寸豪の迷いもおありにならなかったであろう。相次ぐ内政の改革を、蘇我の一党がどのように受取ろうと、よしどのような内憤を抱こうと、道はただ一つと観じておられたことであろう。(中略)
 まことに、太子の十七条憲法は、人倫の規範としての国家の永続性と一君万民の統治の大本と、君臣の分とを的確に明示して余すところなく、同時にまた仮借なき氏族制度の否定であり、大乗の真理国家の形成をめざす痛烈な政治的革新の法である。

⑭承詔必謹(しょうせいひっけん)(第三条:詔(みことのり)を承(う)けては必(かなら)ず謹(つつし)め)は天地の必然である(111~112ページ)
 十七条憲法が最大の問題としているのは、専制君主としての天皇の利害ではなく、あくまでも大乗の真理の地上的現成が問題の焦点とされているのである。真理すなわち正法の現成こそが「公(おおやけ)」のことなのであって、それ以外はすべて私事にすぎない。この「公」の成就こそが官にある臣下の役目であり使命なのである。蘇我氏といえども「王(おおきみ)の臣(しん)」にすぎない。したがって「公」とは決して個人としての天皇をいうのではなく、天意(てんい)現成(げんじょう)の天皇の「業(おおみわざ)」すなわち「天業」をさすのである。
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# by ikawazukbr | 2012-08-08 18:09 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき10)

⑧蘇我馬子(そがのうまこ)の立場(98ページ)
 馬子が倒した物部守屋(もののべのもりや)の妹は現に馬子の妻であった。守屋は馬子の義兄であった。馬子が大逆をあえてした崇峻(すしゅん)天皇も、馬子が暗殺した二皇子の一人である穴穂部(あなほべの)皇子(みこ)も、共に馬子の妹である小姉君(をあねきみ)が欽明(きんめい)天皇の妃としてもうけた皇子であり、太子にとっては母の弟であり叔父にあたる。馬子にとっては甥にあたる。そしてまた太子の妃の一人:刀自己郎女(とじこのいらつめ)は、馬子の娘である。だから馬子は太子の義父なのである。

⑨太子の心底にあるもの(98~99ページ)
 『上宮(じょうぐう)聖徳(しょうとく)法王(ほうおう)帝説(ていせつ)』には、太子にとって最も悲痛な事柄が記されている。それは太子の母であり用明(ようめい)天皇の皇后であった穴穂部(あなほべの)皇女(ひめみこ)が、「用明天皇崩御の後、腹違いの皇子と婚して一女を生む」と記されている一事である。太子のひたむきな求道は、人間の煩悩についての血のにじむような苦悩が、その一つの因をなしているのではなかろうか。日本精神史において、このような面から「人間の煩悩なるもの」に対決されたのは、おそらく太子が最初であろう。しかし、求道は遁世(とんせい)ではない。遁世であってはならない。国運を一身に荷われた摂政として果すべき太子の課題は、天意の継承としての国家、正法の支配する大乗の国家、人倫の規範としての国家の現成でなけらばならない。

⑩太子こそは第三の「ハツクニシラス」日嗣(ひつぎ)の皇子(107ページ)
 飛鳥(あすか)維新(いしん)は、推古天皇の6年、聖徳太子の『勝鬘経(しょうまんきょう)』の講讃(こうさん)をもって開始された。この講讃の政治的並びに歴史的意義の重大さは、日本民族にとって日本民族の国家の形成とその後の発展に、評価を絶するほどに大きいものではないだろうか。

備考:『勝鬘経』には、舎衛国(しゃえこく)波斯匿王(はすのくおう)の女(むすめ)にして、阿踰闇国友称王(あゆじゃこくゆうしょうおう)の王妃である勝鬘(しょうまん)夫人の十大受(じゅうだいじゅ)の誓いと三大願さん(だいがん)と欇受(しょうじゅ)正法(しょうほう)の絶対帰依を通して、大乗の仏説が説かれている。続いて説かれた『法華経』には、在家の維摩(ゆいま)居士(こじ)を主人公として、世間に即して大乗の精神を生きる生活が説かれている。共に在俗の生活を追求して、そこに範を求められたのである。

 「中(みなか)」の理念の展開としての日本国家の普遍的根拠を明らかにされ、宇宙形成の原理の正法の地上的現成こそ日本国家形成の根本理念であることを宣布された。天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)とは、この理念のさながらなる継承以外にない。
 天皇の権威とは、権力や武力をもって思うがままにこの国を支配することにあるのではなくして、身をもってする正法の実現にあること。したがって天皇を中心者と仰ぐ日本国家の形成とその発展とは、天皇の人民支配の手段としての国家の形態ではなく、普遍的真理すなわち宇宙の法の地上顕現を使命とする至純至高の国家の形成であるべきこと。この基本理念を如来の大願に託して明示されたのだと確信する。
 とにかく、太子の偉大さは尋常ではない。と同時にまた、この国の運命を一身に荷われた太子の苦悩の深さも、また我々の想像を絶するものであられたに相違ない。
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# by ikawazukbr | 2012-08-04 10:13 | 旅行記
みささぎ参拝の薦め
(33)第33代:推古天皇(つづき9)

⑥推古天皇の叡慮(97ページ)
 推古天皇は、第29代:欽明(きんめい)天皇の皇女であり、18歳で敏達(びたつ)天皇の皇后となられた。母は蘇我稲目の娘:堅塩姫(きたしひめ)である。従って馬子にとっては、妹の娘すなわち姪にあたる。自分の姪が皇位に登るということは、馬子にとって願ってもない好機であったに相違ない。しかし推古天皇は三度まで辞退されたと日本書紀には書かれている。未曾有の大事件の直後に皇位をふんで、誤ることなく社稷(しゃしょく)(国家)を安泰に保つということは容易ならぬ業であり、それを想いこれを憂いて叡智の限りをつくされたことであろう。
 そして日頃信愛し給うた太子とともに、ひそかに協議を重ねられたのではないかと拝察される。事態の推移、群臣の動向、馬子の性格・野望等を充分検討打合せの上、皇位につかれたのであろう。したがって即位の翌年四月、推古天皇は、厩戸皇子(うまやっどのみこ)を立てて皇太子とし、摂政とし、「依りて政(まつりごと)を録(とりふさ)ね摂(はから)しめ、万の機(まつりごと)を悉に委ねたまひき」すなわち、皇太子として摂政として、一切の政治の権限を聖徳太子に一任されたのである。それからちょうど30年間、49歳で薨去されるまで、太子は摂政皇太子として、その地位にあられたのである。これでは太子が皇位につかれたのも同然で、この間ついに馬子はその野望を現す機会を失ってしまったのである。
 ここで特記しておかねばならぬことは、推古天皇は、敏達(びたつ)天皇の皇后として、敏達天皇との間に竹田皇子(たけだのみこ)と尾張皇子(おわりのみこ)の二皇子がおられたのであるが、ご自分が産まれた皇子をさしおいて、聖徳太子(推古天皇の兄君:用明天皇の皇子で、推古天皇の甥にあたる)を皇太子に選ばれたということである。この事に肉親の愛情を超えた推古天皇の叡慮の深さと霊妙な天意のはからいに想到(そうとう)して感動せずにはいられない。或いは馬子が推古天皇を推戴したことも、馬子の知謀を超えた天意が彼をしてそのようにはからしめたのであろうか。

⑦仏法興隆をはかられた太子の意図(98ページ)
 太子が摂政として第一に着手されたのは仏法の興隆であった。(中略)太子が、まず仏法の興隆に着手されたのは何故であろうか。非常の事態に直面して最も必要なものは各人の思慮の深さ――と考えられたのではなかろうか。強硬な打開の手段は、よし探ることができたとしても、かえって狂気に油をそそぐ結果となり、混乱と恐怖と抗争の激化にしかならない。今は静かに、各人の関心を心の内奥に向け、正しい反省に導くことが第一と考えられたのではなかろうか。したがってまた三宝の興隆は、けっしていわゆる「崇仏派」の勝利を単純に肯定されたのではない。むしろ、仏法の真偽を明らかにすることによって、邪教外道ごとき蘇我氏の崇仏の欺瞞(ぎまん)の暴露(ばくろ)をはかられたのであろう。
 或いは、骨肉までが相食み、血で血を洗う非常の姿に六欲煩悩(ろくよくぼんのう)に膿み憑かれた人間の妄執のいたましさ哀れさ悲しさ醜さに、われひと共に、まず心の眼をしっかと見開きたい―――という念願であられたのであろうか。人間性にひそんでいるこの無残さ――この問題こそ、当時の太子の最大の関心事であられたのかもしれない。
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# by ikawazukbr | 2012-08-03 10:26 | 旅行記